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Nov 2014

余白

昨日と一昨日は灰色の日だった、がそれもまた落ち着いて静かな日であった。九十半ばの病母と長い年月を一つ屋根の下で暮らし、母が逝ってのちに音信が途絶えていた友達から、この静かな日に分厚い封書が届いた。葉書の絵に託して問うても、一向に音沙汰のない日々を案じていたが、やはり立ち直ってくれて、手紙の内容は日本画の余白の美についてだった。明るい、賑やかなデスク回りになった、喜び勇んで余白の議論に加わった。等伯の「松林図」を挙げる彼女。やがて言葉の余白に移る私。分厚い返書に封をして雨の中をポストに向かう。ともだちは、長い看病ののちに、余白の時を入れていたのだった、どうしても必要な空間、そこに肝心なものが在るのだ、光も闇もある。
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相撲と選挙

今日、相撲が千秋楽。年末に選挙がある。関係ないように見える相撲と政治だが、白けきってしまった、という点が同じだ。横綱が変化したり、素人にも丸見えの八百長をやったり、部屋の者を教育できない親方がいたり、相撲なんかもう知らないって気持ちだ。一方、安倍さん。年末に解散して総選挙をやったら投票率が低いから、組織票を持っている与党が楽々勝つと踏んでいる。程度の低い、狡い、見下げた連中が仕掛けた選挙だ、と私は思う。アベノミクス、というカタカナを、いったい何度耳にしただろう。私のアベノミクス、とも言っていた。これって、なんなんだ? 私は、いまもってこれが意味するものを知らない。こんな粗末な我利我利亡者が政権を握っているのは、了見の狭い野党の連中に責任がある。協力しないでもめているのが生き甲斐なのだろう、これまた国民そっちのけの視野狭窄症の群であり、応援したくもない。組織票と呼ばれる票に数えられて、確実に票を入れている集団、宗教団体の言いなりに投票する被洗脳集団、こういう集団も、実はれっきとした日本国民なのであり、テレビに出てくる安倍だ、麻生だ、という集団だけが白けの素ではない。交通渋滞の中にも、スーパーの売り場にも、白けの素は、たくさんいるのだ。
さて、それでも私は投票します。一人でも多く、真面目に自分の頭で考えて投票しますように。忙しいけれど期日前投票に行きましょう。
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富士猫の話 #4 尾

猫の尾
犬の尾はさし尾と巻き尾があり、巻き尾は左巻き、右巻きがあり、左巻きの尾の犬が、途中から右巻きに変わることはない。また、さし尾と言って巻かずに伸びている犬は、巻くことはない。私が見て知っている犬の尾の振り方は、喜んだときにむちゃくちゃ振りまわす。たとえば留守番をしていて、ただいま、の声がしたとき。オモチャが気に入って遊ぶときなど。好きな異性の犬と出会ったときには、人には見せない、微妙な緊張をはらんだ静かな振り方をする。また、強く警戒する、あるいは怒っているときに、尾を振るのだ。喜んでいるときとは違い、ゆっくり、と振る。たいてい低いうなり声を伴う。これを歓迎の印と見誤ると噛みつかれることになる。
では、まだつきあいの浅い猫ではどうでしょう。お手上げであります。尻尾の形、長さが色々で目茶苦茶。もちろん、特定の種では統一されていて、アメリカン・ショートヘアの尾はさし尾で長い。どの猫も、犬のように巻かない。
マルオという外猫がいて、私はこの、白地に黒い斑の雄猫の面倒を見ている。寝る場所とトイレ場所、それに食物を用意している。はじめて庭に現れたとき、丸い尾をしていたのでマルオと名付けた猫。マルオの尾は一見、団子のように丸いが、実は鈎のように曲がっているのだった。猫は、犬のように尾を振らない。そう思い込んでいたが、マルオはご飯を貰うときに尾を振る。ご飯のたびに、ご飯を見つめて尾を振る。丸い尾なので、痙攣しているようにも見えるが、大喜びで振っているのがわかる。先日、玄関前で出会ったら、私を見て尾を振って寄ってきた。よしよし、と撫でたら仰向けにひっくり返った。どうも、雄猫のほうが無邪気だ。
富士が長い尾を振るときは、ごはんに関係ない。犬のような振り方ではなく、長い尾を振り回す、という感じで、それは私が手を振り回すのと似ている。離れた所で尾を振り回し、じっと私を見ている。私は同じような動きで片手を振ってみせる。と、素早く反応して更に尾を振る。やがて立ち上がり、誘うのだ、遊びましょ!
追いかけっこ。かくれんんぼ。ボールならぬ、ぬいぐるみ投げ。オモチャネズミを追いかける。富士はシッポを忘れて走り回る。抱いているときに、派手に尾を振ることがある。これは、降りたい、抱っこ飽きた! と言っているのだ。富士の尾の使い方は、尾話である。尾が表情を持ち、動きは言葉の代わりをしている。私は話しかけながら、手の動きで伝えるのだが、これは富士の尾話を覚えて、使うことにしている。富士は私の腕を尾と認識しているらしい。しかし、まだ修行中で、尾の先の方だけを、すこし動かすような技は、まだできない。というか意味するところが掴めていないのだ。猫の尾はなかなか深いものがある。
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街の顔

外出した帰りの乗継駅、新宿で日が暮れた。久しぶりだ、ちょっと歌舞伎町を散歩しようか、と東口に出た。居眠りしながらでも歩ける界隈である。青梅街道へ出て30分足らず歩いたあたりで生まれ育ったのだから、新宿は地元に近い街である。歌舞伎町がきれいになったと噂に聞いていたが、それはほんとうだった。明るく健康的な街になっていた。縦筋の通りから横筋の細道へ、また縦筋へと散歩する。歌舞伎町を眺めようという見物客が多いのは前からのことだが、外国の人が増えた。人だかりに近寄ったら果物屋だった。串団子が並べてあり、これが人気を集めているのだった。イチゴを3つ、串刺しにして200円。男の子や女の子たちが騒ぎながら、ふたりで1串買い、食べ合って笑いさざめいているのだが、まあ、どの子たちも体格のよい、背の高い子たちである。店に入るでなし買うでなし、歩きながら昔を思う。アベックという言葉があったっけ。いまはカップルというらしいが、私は使ったことがない。書いたことは、さらにない。当たり前の日本語として用いている文章を多々見かけるが、これも必要なことに違いない。時代を写し取るものは映像に限らない、時代の言葉を写し取る役目は文字が担っているのだから。
歌舞伎町を出て、お気に入りだった界隈へ足を向けた。が、どこもここも企業がやっているんじゃないか、個人の店は消え去ったらしい。昔の店は小さくて奥行きもなくて、だから主人の顔があった。新宿に食道横町、渋谷に恋文横町。新宿には、ほかにも色んな横町があって月島行き、岩本町行きの都電が走っていた。
新宿は宵の顔を見せていた。夜の顔つきに変わるには、すこし間がある。ご無沙汰続きの新宿だったが、時計を見ずに街の顔色で時間が分かる、この街の鼓動は残っていた。横丁が消える、ビルが建つ、見た目がどんどん変わってゆく街を、昨日東京に出てきたような顔が歩く。見えない時計が新宿の時を刻み、ビルも車も、またたくまに新宿色に染めてゆく。変わるからこそ新宿、実は同じ鼓動の歌舞伎町、これが東京。
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富士猫の話 #3 顔

猫の顔
猫の顔は、犬の顔と動きが違う。つい、犬と比べてしまうのを大目に見て頂きたい。私には犬が染みついている。猫の顔で一番目立つのが目。丸く見張っている。眩しいからと犬のように瞼を細めない。明るいと瞳が縦に糸のように細くなり、暗いとまん丸の瞳、真っ黒になる。昔の人は、これで時間を計ったというから敏感なものだ。この目で、動く物を捉えてはなさない。蜂一匹を真剣に追いかける。犬も同じだけれど、犬は猫のように小虫まで追いかけはしない。鼻先を飛び回る虫は、うるさいなあ、である。
耳は子猫のときは釣り合いが取れないほど大きな耳をしていて、1年過ぎて大きさが安定するとバランスの取れた大きさになる。耳の動かし方は、犬とそっくりで、眠っているときも、しっかり立てている。音のする方角へ細かく向けるのも、すべての動物に共通しているのだろう、人も気持ちでは音の方角へ耳を澄ませているにちがいない。怖れたときは平たく寝かせるから、怖がっているな、と見て取れる。犬は怒ると鼻に皺を寄せて前歯を剥き出す。白い歯と牙を相手に見せつけるのだ。私は、富士が鼻に皺を寄せるのを見たことがない。犬の持っている表情筋がないのではないかしら。かわりに怒るとシャーッと嵐を吹く。このときは口を大きく開いて、歯も牙も剥きだして全開。しかも口の中全体が真っ赤。顔を真っ赤にして怒る、という感じそっくりである。欠伸をしてああ〜〜ん、と口を開けるときは、舌の色も口の中も、ピンク色だし、身体全体が緩みきっている。鼻の両脇、ヒゲが生えているところ、ニャロメは、ここを強調している顔になっているけれど、この部分が最も表情豊かで面白い。これが猫の特徴だろうか。無事平温で何事もないときは、顔が三角に見えるほど、すっきりと細い。芋虫が足もとを、もぞもぞと行進している、その動きを注視している。こんなときは頬を膨らませてヒゲが左右に広く張っている。もっと大きな獲物ーたとえ、それがオモチャのネズミであろうと、獲物に向かうときは、この頬の張りが著しく膨らむ。狙っているな、と一目で分かる。真剣なまなざし、左右に張ったヒゲ。頭と背を低く構えて尻を微妙に蠢かせる、これが攻撃のスタイルだ。なんでもないときに、つまり獲物と無関係なときに頬を膨らませて歩いてくることがある。これは外猫たちがしばしばやる表情で、「おなか、空いた!」です。尻尾、足も書くつもりだったけれど、次回にします。
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富士猫の話 #2 爪

猫は、犬ではない
猫を犬と思ったわけではない。それはないが、犬とつきあってきた、そのやりかたを自然になぞっている。たとえばご飯の時間。朝夕6時。同じ声をかける、富士、ごはんよ! 同じ場所で、同じ容れ物で、食べている間は、そばについている。おいしい? よかったね〜。ごちそうさまね。同じ動作、同じ言葉、きまった時間に繰り返します。犬も猫も、そしてカラスもそっくり同じ、あっというまに覚えてくれる。覚えやすいように、同じ動作で同じ言葉をかける。これでお互いの間に「信」が芽生えると思う。
ここまでは一緒、そっくり同じだった。問題は、この後のことであった。昼間の猫の目はビー玉のように丸いけれど、瞳は縦1本、糸のように細い。この目を見開いて見つめる先は、上のほう、である。犬は水平に目を向ける。遠くはるかな地平線を見る気持ちで目を遠くへ向けるのだ。散歩に出て、高台へ行って腰を下ろすと、千早は正座してはるかな地平線、それは細々した屋根の連なりによって閉ざされているのだが、その向こうを見透かそうと目を放つのだ。あの遠くへ行こうね、と随分、一緒に旅をした。
ところが富士は室内にいて、手近な上をみる。その目つきには力がこもっている。見るだけで終わることはない、かならず跳び上がる。犬と猫の目線の違いを、まず発見した。
次の発見はツメ。猫の爪は出し入れ自由で、爪を隠すことができるし、爪を故意に出すことも、もちろん自由自在だ。犬の爪は、ごく自然についている、人と同じように。
おまけに、猫は爪を研ぐ。私は、猫が爪を研ぐのは、文字通りに、砥石で刃物を研ぐように、先を鋭くとがらせるのだと思っていた。ところが、これはまちがっていた。猫の爪は、半透明のプラスチックのような莢をかぶっており、つま先を堅い物に引っかけることによって、古い莢を外しているのだった。富士が我が家に住み始めた翌日に、小さな莢を拾った。居間の絨毯の上に落ちていた。猫の爪は、マメに切ってやるほうがよさそうなので、外向きに抱いて、人間の爪切りで切ってやる。はじめは、1本、切っただけ。嫌がらないで切らせて貰えるように、一回に一本だけ、が続いている。
もう一つが、汗をかく場所のちがい。犬は呼吸をするときに放熱して体温調節をする、猫は、なんと足の裏に汗を掻くという。富士が棚の上を歩く、足裏の、わずかの湿り気で足跡がつく。
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富士猫の話 #1 命名

自分の予定には、まったくなかったことだった。何がって、猫と暮らすことだ。私は子どもの時から犬と一緒だったが、猫は親戚の家にさえ、いなかったのだ。猫はのらねこ。のらねこはいたずら者。猫というものとは疎遠であり、なぜか知らぬが私の姿を見ると、隠れるか逃げるかするのだから、猫も私を避けているのがわかる。ということは、お互いに虫が好かん、のである。少なくとも私は、そう決めつけていた。
 紆余曲折があったが、猫と二人で、二人というのはおかしいが、一人と一匹では決してない、私たちは、ふたりで暮らし始めたのだ。およそ百日児くらいの雌猫を、私は「富士」と名付けた。山中湖畔から眺める富士山の富士を思い、名付けた名である。この猫は、アメリカン・ショートヘアという種類で、黒白のシマシマ猫だ。
そんなことは、実はどうでもよい、無地でも水玉でも見ればわかるし、それだけのことだ。しかし、腰が抜けるほど驚いたことは、富士が活発な猫だ、ということだった。
テーブルに飛び上がる。ふわり、と身軽にあがってくる。飛び降りる。どさっ、という音がすると思うでしょう、音なしである。こんな程度の日々は、あっという間に過ぎ去った、今の話をしましょう。1歳半になった富士は、台所の食器棚のガラス戸が開いている、とみると、上の段に両手を引っかけて覗いているのだ。空のお皿しか入っていないけれど、なにかな? と見たいのだ。脚は宙ぶらりんだ。テーブルの四方に椅子がある。富士がイスの背に立っている。幅が3センチもないところに立っているから、器用だなあと見ていたら、いきなりペンダントライトの笠に飛びついた。両手でぶら下がり、長い胴体と長い脚、それよりも、もっと長いシッポが揺れている。大揺れのブランコだ。パンケーキとジャム、サラダがあるテーブルの上のランプである。コーヒーも淹れてある。その真上である。額の縁にぶら下がる、飛び上がった棚に花瓶があり、あらら、ガチャン、と落ちたのを見下ろしている。
この1年、我慢をして口を閉じていたが、富士猫の話をUPすることにします。
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