文房 夢類
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富士の誕生日

まさか、この私が飼うとは夢にも思わなかった猫がやってきて丸5年になった。昨日が富士の5歳の誕生日だった。
ということは、私も5つ歳を重ねたのだなあ。5年前はまだ70代だったのだなあ、などと富士のことより自分の年齢の刻みに思いが行ってしまう。
5歳の富士は、いまが盛りの健康体だ。跳び上がりたいところへ軽々と浮かび上がるかのように跳躍するだけでなく、幼いときと違って目計りも確実になっている。猫族の肢体の美しさは、犬とはまた違う楽しみで、遊ぶ姿、眠る姿ともに魅力がある。
こんなことより、最も興味深い進歩は、学習能力と記憶力ではないだろうか。
いまどきの人間は、恐ろしい速さで記憶する能力を器械に委ねつつある。
ついこの間まで、私の年代の人たちのあいだでは、デジカメって外来種なの? と囁き合ったものだ。デジタルカメラそのものを見たことがない上に、デジカメと省略した言い方が広がっているので、デジという名の亀の一種だと思っていたのだ。今では古いものも新しいものも、知らない物事はない、ググったら出てるわよ、なんて喜んでいる。
この進歩の足取りには加速度がついている。記憶する必要がなくなったことを実感できる故である。これに加えて元来内蔵している「忘れる力」も働くのだ。
古くから持っている「忘れる力」とは、嫌だったことや、世間の出来事を忘れる力のことだ。3.11後の放射能の拡散状況、その影響についての関心。森友・加計問題。熊本の大地震も、霧島の新燃岳の噴火も、地元の人以外はたちまち念頭を離れてゆく。
これではいったい、私たちの脳みそには何が残るのかしら?
富士は、違う。あらゆることを記憶すること、これが自分の命に直結していることを知っている。覚えたら一生忘れない。
富士だけではない、自由猫のマルオも、他の猫たちのみならず、犬も馬もあらゆる動物たちは自分自身の記憶力が、食べ物を得ることと同列に大切なのではないだろうか。自分の記憶以外の場所から、何も引き出せないのだから。
動物の物語には、どこそこ山の大熊、大鹿は頭が良い、ずる賢くて出し抜かれた、などと書かれているが、記憶力が良い個体だからこそ生き延びているのだと思う。
5年間の間に富士は、たくさんのことを見聞きし、経験し、その全てを覚えてきた。私も協力して彼女の経験を増やそうと、大雪の中に出してやり、大風のベランダに身をさらし、大雨の時にドアから連れ出したりもした。毎朝の散歩をねだる時に、雨よ、と言ってドアを開けると納得する。散歩から帰りたくなった私が、お家に帰ろう、と囁くと向きを変えて戻る。お留守番してね、という必要はほとんどない。着替えたり帽子をかぶったり、鍵を持ったりする仕草を見ていてわかってしまう。
猫は、せいぜい5キロ程度で小型犬ほどの体格だし、四つ足だから、ほとんど見下ろして付き合っているのだけれど、気持ちは同じ目線で付き合っている。違う部分は多いけれど、気持ちの部分は重なっているので、人と付き合うのと富士と付き合うのとは、区別をしていない。
二、三日前につまづいて転んだ私が、痛かったなあとしょんぼりしていたら、富士が二階へ上がっていった。猫は自分本位だし、犬のように甘えたりしないから、居心地の良い場所に落ち着いたのだろうと思ったのだが違った。すぐに降りてきて、くわえてきたフクロウのおもちゃを私のお尻にくっつけて置いた。このおもちゃは生まれてはじめてもらったお宝で、一番のお気に入りなのだ。大層なものではない、手製のタオル地のフクロウ。
富士が、お見舞いしてくれたんだ、とわかった時、なんと嬉しかったことか。ありがとう、の印にキーボードの横に、しばらく置いておいた。これが犬の千早相手だったら、千早の首に抱きついてありがとう、を連発するところだが、富士との付き合いでは、私が大切にしている場所にフクロウを持って行った、これを富士に見届けてもらうことが最大のありがとうなのだ。お互い、相手のやり方を取り入れながら、ありがとう、ありがとうの付き合いができるようになった5年目であります。

今どきの赤ちゃん

ベビーカーに乗っている赤ちゃんの話。赤ちゃんと言っても2歳前後に見える女の子だったが、夕方のバスに乗ってきた。お母さんはバスが動き出す前からスマホに目が吸着しており、私は向かい側の「思いやりシート」に腰掛けて、ベビーカーに収まっている可愛らしい赤ちゃんを眺めるともなく目を向けていた。
やがて赤ちゃんが両足を突っ張った、次に頭を反らせた。みるみる難しい表情になり身体中をくねらせてもがきはじめたが、お母さんはスマホに見入っている。行くな〜、と見ていると予想通り、赤ちゃんがギュワア〜と大声をあげた、顔じゅうが涙ビシャビシャになる、2声目はさらに大きい。
するとお母さんは、いや、このママはとても綺麗な女性で、キラキラしたネイルがすごく美しいのだ。このママは、泣きだした我が子に目を落とした瞬間、すぐにスマホの操作に戻り、忙しくネイルの先を動かしたと思ったら、泣きわめく赤ちゃんの手に自分のスマホを握らせたのだ。赤ちゃんは握ったスマホの画面に目を向け、すぐに泣き止み、そして。目を丸くしてみている私は、唖然として口を開けてしまったのだが、もう一方の手指を使ってスマホを操作し始めたのだ。もちろん、泣くことなど忘れ去っている。お母さんは窓の外に目を放ち、のんびりした表情だった。私は考え込んでしまった、年をとってボケてきて赤ん坊の月齢を読み損なったのではないか。赤ちゃんと見えたのは間違いで、4、5歳児だったのでは? まさかそれはない。1歳半といっても通るような本物の赤ん坊だったのだ。

浦島草

今年も浦島草の花が咲いた。手のひらの一回りも大きな葉を一枚だけ広げて、その下に咲く花は茶紫色の筒型で「大型の仏炎苞に包まれた肉穂花序」という表現をするが、これでは、何のことやらわからない。これはサトイモ科の植物で、同じくサトイモ科の水芭蕉とよく似た花の形、といったほうがわかるかもしれない。ラッパ状に上を向いた筒の先が細く長い糸のように伸びている、これが浦島太郎の持っていた釣竿の釣り糸に例えられて、浦島の名前をもらっている。
花屋さんで売られている花ではない、私は貰ったのでもなく、買ったのでもない、庭に自然に生えていたので見守っている。秋に朱色の実をつけるが、これはトウモロコシのような実のつき方をする。全く実のつかない年もある。
この植物の持つ特徴は、性転換をすることだ。小さいときにオスでいて、大きくなってくるとメスに変わったりする。無性のこともあるというが、眺めても私の目では判然としない。
もう一つの特徴は、ちょっとひどいなあ、と思うようなものだ。メスの花が受精しようという段になる、そこへオスの花の花粉をいっぱいつけた虫、虫はキノコバエというハエなのだが、これが飛んできて筒型のメス花の中に入り、受精が完了する。
さあ、めでたしめでたしで終わると思うでしょう。ところがキノコバエは花から出られずに死んでしまうのだ。入ったら最後、出られない仕組みになっている。私は、これはひどいなあと思う。出してあげたって良いではないか。閉じ込めてしまう理由を想像するに、トウモロコシの実のようにたくさんの粒が結実する植物だから、念入りに虫が飛び回り受精させようとして軟禁するのではないだろうか。いや、軟禁というより命の限り励めということだ。想像を逞しくして行けば行くほど、恐怖、残酷のメスと言わざるをえない。
この実は地に散ると芽を出すが、丸2年後に発芽する。サトイモのように、親芋の周りに小芋がたくさんつくので、小芋を分けて増やす方が簡単だ。増えすぎてあっちにもこっちにも芽が出ているが、花が咲くまでに成長するには数年かかるように思う。
浦島草とそっくりの姿で釣り糸がない種類はマムシグサと呼ばれて、山道でよく見かける。マムシというよりもコブラが鎌首を持ち上げて、こっちを見つめているといった感じの花だ。これは猛烈な毒草で、里芋みたいだな、と芋を食べると死ぬこともある。
浦島草もマムシグサと同じサポニンという成分を持っていて、口に入れてみた人の話では、マムシグサのレベルではない激痛が口内いっぱいになるそうで、飲み込んだら死ぬに決まっているだろうが、呑み込める代物ではないそうだ。
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