文房 夢類
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どら焼きおじさん

香織さんの家の庭に一本の柿の木があることは知っていた。それは実生の柿で、たわわに実をつけるようになったが渋柿だった。継木、少なくとも継ぎ枝をしたら甘柿が実るから、ぜひ、やってごらんなさいと勧めたが、生返事をしている。柿の季節がきたとき私は言った、じゃあ干し柿にするといいわ。彼女は言った、どら焼きになっちゃった。
通りかかるおじさんが柿の熟し具合を観察していて、もいで行くのだそうだ、無断で。呆れた、なんて人でしょう。で、どら焼きを沢山くれるんですよ、だからウチではどら焼きおじさんて言ってます。
夫は、食うより眺めが好きだというのだそうだ。
先日のこと、どら焼きおじさんが、冷凍のたい焼きとコロッケを持ってきたという。生協で買いすぎちゃったから、といったそうだ。両親、兄弟のいない一人暮らしの人だから、そういうこともあるだろうと思ったのだが、おじさんは入院したのだった。香織さんは、お見舞いに二度行った、三度目のとき病院の人が「お帰りになられました」と頭を下げたという。まだ若い香織さんには、それが亡くなられた方への病院の挨拶だと、すぐに悟ることができなかった。いちばん悲しんだのは、どら焼きおじさんと名づけた夫だと話してくれた。

人寄せ桜

昨日の東京は雨だった。桜の開花宣言は今日に持ち越されるかと予想したが、昨日、開花宣言が出た。
隅田川の河岸をはじめ、東京の桜の名所は川べりが多い。堤の桜は自然に生えたのではない、植えたのである。なぜ川の堤に植えたかというと、堤を固めるためだった。堤防を作って終わりにはしない、始終見守ろうと考えた。
江戸時代のあれこれ文章によると、花見に人が集まるだろう、ぞろぞろと堤を歩くだろう。これで堤が踏み固められるだろう。そういう思惑であったという。

6年目の3.11

今日は東日本大震災・福島原発事故から6年目の311日。日本が戦争に負けて国中が疲弊しきった1945年から10年経った時に「もはや戦後ではない」という声が上がったのを覚えている。そして1964年に東京オリンピックが開催されたときには、戦争のことを口にするものはいなかったように思う。
さて、3.11から10年後に人々はなんというだろう。20年後にはフクシマ原発のことを口にするものがいない世の中になるだろうか。その時わたしは、この世にいないだろう。
阪神淡路大震災から22年が経った。あの時被災地にふたりの友達がいた。兵庫県芦屋市と神戸市東灘区。東灘区の友人は全壊した自宅から箕面市に自主避難した。ワンルームマンションを借りたが、そこは夫婦だけで一杯、子どもとはバラバラの暮らしを余儀なくされた。芦屋の友人の家も全壊したが、夫が不自由な体であるために指定された避難先、小学校へ行かれず、自宅の庭に潰れずに残った小屋にいた。子どもらはバラバラだ。二人とも暴風雨に痛めつけられた草木そのものだった。翌年、芦屋の友人は夫を失った。そして2年後に東灘区に戻った友人が夫と死に別れた。そして自分も癌で倒れた。去年の秋、このふた組の夫婦の、最後の一人が亡くなった。80歳を前にして。とことん頑張ったのだ。夫婦揃って自分の力を信じる頑張り屋であったがゆえに、頑張って我慢をし尽くしたに違いない。あの地震が命を縮めた、私はそう確信している。
戦争の最中、7人家族だった私の生家は、敗戦後1年足らずで5人に減っていた。祖母と赤子が命を縮めたのだった。
芦屋の友人が亡くなる3ヶ月前のこと、電話をかけてくれた。彼女は言った、もう話題にならないわ。じゃなくて話に出さないの。見違えるように綺麗になったし。でも本当はね、何にも変わってないの。同じなのよ、あの日から。
阪神淡路の被災者が、何人も東日本大震災の被災者たちに救援の心を届けたと聞いている。私は、彼女の心の叫びを抱きしめた、100日後に旅立つとも知らないで。

三寒四温

今日は3月3日、桃の節句、ひな祭りです。乾燥していた東京、神奈川、千葉、埼玉は久々のお湿りでほっと一息、気持ちも和みます。友人よりの便りに、若い人から聞いた「三寒四温」の解釈が書かれていました。それは三日寒さが続き、4日暖かい日が来る、徐々に春に向かう有様とは別物で、3月まで寒く、4月から暖かい、というものです。
これは面白い、確かに関東の南側では当たっていると言えるでしょう。カナダ、トロントの友人の便りでは、極寒の日々が続いている様子が語られます。定めし四寒五温でしょう。青森も北海道も四寒五温だろうなあと、各地の知人を思い浮かべつつ、お雛様にひなあられ。
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