文房 夢類
文房 夢類
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カメラの目

今年は、7月末の現在まで台風が一度も来ないという。最近続く集中豪雨は台風ではない。なんか地球の健康状態がおかしくなっている。検査しに病院へ行った方が良い状態だと思う。
ビオトープのヤゴたちは、いよいよ水中生活から空中生活へ入る時期が近づくと岸辺に寄りついてその時を待つ。なるべく晴れた日に飛び立ちたい。でも今年は雨のち曇り、のち雨みたいな日々が続いて気の毒だ。
快晴の日には、朝5時頃には飛び去っている。湿気が強い曇りの日には、合わさった4枚の羽を垂直に立てたままの姿で羽が乾くのを待っている。水平に広がるまで時間がかかる。8時、10時。とうとう昼過ぎまでかかって、ようやく飛び立つというトンボが増えた。
この、無防備な時間を無事に乗り切ることが、空中生活へ入ったトンボが受ける最初の試練だ。自分ではどうすることもできない、運を天に任せるほかはない。
外猫のマルオは、水面から30センチも離れていないところで羽化中の姿を見ても知らん顔だ。何事にも動じない年配だから安心していられるが、富士は好奇心の塊だから危ない。ミミズでも蜂でも手を出すから、夕方までは庭へ出さない。
珍しく水草の茎にとまって羽を広げているトンボがいたので、離れたところからズームで撮った。パソコンに入れて拡大してみたら、なんと奥の葉にもう1匹いた。2匹だったとは知らなかった。
カメラの目について、こんな時に思案する。ジャーナリストが取材記事を書く。こんな前置きを読むことがある。その時私はカメラを連れていた。つまり取材者が映像保存のために撮影の専門家を同伴して取材しているという姿だ。主体は文字表現をするジャーナリストだ。その従属物としての位置に映像を置いている。機材を扱うカメラマンに、どのような意味、価値を置いているのだろう。記事を書く人と撮影する人が違う場合は、連名作品となるのが自然ではないかしら。
1匹だと思って撮ったトンボが2匹いた。カメラを操作る私には見えなかった現実、事実が撮られていた。これは機械の力だ。私の眼力ではない。
一方、カメラを操る人が、これを見よう、ここを見ようという強い意志のもとに狙いを定めて撮った映像がある。これには、その人の魂がこもっている。風景写真を撮っても、そこに撮影者の人柄も見えてくるのである。どこに感動しつつ見つめているかも、伝わってくるのである。
今、薄い板っきれみたいなもので気軽に無数の写真が撮影されているが、どうなんだろう、安易に撮れるからこそ心込めて丁寧な一枚を、文字を書き綴るよりももっと深く、もっと細かく刻まれる映像に留めるようにしたいと思う。

吉川弘文館の案内 その2

吉川弘文館が『戦争孤児たちの戦後史』を今月刊行開始する。総集編・西日本編・東日本と満州編の全3巻。戦乱期の子供たちに視線が注がれるまでに、これだけの年月がかかった。このことに深い感慨を覚える。
ぜひ、手に取ってゆっくり読もうと思う。いったい何歳くらいの人々が携わり、出来上がったものだろう、そのことにも大きな関心がある。この3巻の中で取り上げられているだろう子供たちには、生きていたとしても表現する力はあまり残されてはいないはずだ、私の年代だからわかる。
当時、まがりなりにも屋根の下にいて家族が揃っており、乏しくとも口に入るものにありつけていた私は、上野の地下道にいるという孤児たちのことを思っていた、布団の中で寝ると思いだした、食べると思わずにいられなかった。しかし上野の地下道の孤児たちの情報は、口伝えでのみ、聞こえてくるニュースだった。新聞もラジオも触れなかった。ただ一つ、夕方始まるラジオドラマ『鐘の鳴る丘』が、父さん母さんいないけど〜 という明るく元気な歌声とともに戦災孤児たちの今を伝えようとしていた。その内容は、噂の内容とは別世界に感じられた。噂は、子供同士の噂ではない、大人たちが話し合っているのを、傍に立っていて見上げて聞いていた、そういう噂話だった。
神奈川県海老名市の海老名市立図書館の郷土資料の棚で、戦災孤児たちの記述に初めて出会った。が、それだけだった。数多の書き手が童話などの形で発表をしているが、姿勢を正し、真っ向から全体を把握しようとする動きは、これが初めてではないだろうか。立派な企画だと思う。戦争を知らない世代の人たちが手がけてくれるとしたら、それはさらに素晴らしいことだと思う。なぜかというと、過去を探索し、継承してゆく力を見ることができる故である。

吉川弘文館の案内 その1

吉川弘文館が年に一回送ってくれる残部僅少一覧と一緒に、新刊案内の数々が同封されていた。その中に『アイヌ語の世界』田村すゞ子著の新装普及版があった。ウポポイが開館したところだ、この不朽の名著が広まりますように。
夢類の工房を訪ねてくれる「僅少」訪問者の一人である太重斎氏、最近はコロナもあることで無沙汰が続いているが、氏は田村すゞ子先生のお弟子でもあって、夢類工房で流暢なアイヌ語をしゃべってくれたことがあった。何によらず、授かった才能というものはあるものだ、太重斎氏は新しい土地に半年も住むともう、現地語をしゃべっている。将棋の棋士たちが思春期以前にその才能を目覚めさせて開花する、これも授かった才能に違いなく、彼らは多分、数学者になっても大活躍したのではないだろうか。数学、音楽の世界の人たちは開花時期が早いような気がする。将棋もこの世界の仲間ではないかしらと思う。
翻って我が身ともなれば、座右の銘「待て、しかして希望せよ」の通り、花は咲く、花は咲く♪ 仏様のおっしゃる通り、優曇華の花だってきっと咲く! 将来を楽しみに生きましょう! 世の中は良くしたもので、遅咲きの花というものも、ちゃんとあるのである。

寄せては返す波のような

COVID19が今、第二波となって立ち現れた。疲弊しきった、どんよりとした目の首相、別のことで頭がいっぱいみたいな副首相、うんざりだ、やってらんないや、といった面持ちの幹事長。
日本列島が疫病に襲われるのは、初めてのことではないはず。大陸から九州経由で奈良へ、京都へと押し寄せてきた疫病は数知れずあった。藤原四兄弟が次々に四人とも亡くなった原因は、天然痘に感染したからだった。先祖代々、伝えられる知恵というものはないのだろうか? あるはずだ、と私は思っている。古代、天然痘が大陸から九州に上陸して奈良地方も襲われたとき、多くの人々が死に、政界の中心人物である藤原四兄弟も次々に罹患して、四人とも命を落としたのに、その兄妹である光明子だけが、なぜ無事だったのだろう? 歴史には結果のみが記されているが、密かな知恵があったと私は思っている。 
お寺や神社は、疫病退散のお札を売るほかに、伝承などの記録を保存しているのではないか? そのような記録の中に、いつの時代にも通用する知恵が眠っていないだろうか? 最新型の戦略機器、検査方式や対応ワクチンを作り出すことなどと並行して、疫病に襲われた場合の、それぞれの土地の人々の動きの性向分析や、群集心理などの吟味と対応が必要だと思うのだが、対処している国、あるいは自治体はあるのだろうか。これは地球上の各地、それぞれの土地によって大きく違うだろう、その土地ごとに何百年も積み重ねて保存している知恵が、ないはずがない。これらを発掘吟味して活用すべきではないだろうか。
何かあるに違いない。それなのに、昨日の数字に今日、反応する。その危機感を感情で振り回し、目先のものに素早く反応し左右されて、即、結果を欲しがっているように見える。
ウイルスには人間が決めた東京都、神奈川県、千葉県といった行政の囲いはなく、人という乗り物を欲しがっているのだから、とても原始的な動きなんだと思う。人間が、自分たちが作り上げた法律やら何やらの枠に縛られた中でウイルスに立ち向かおうとしていることは、自ら戦いにハンデをつけているようなものではないだろうか。昔の人々は、良い薬もワクチンもなかったのだから、もっと恐ろしく感じたことだろう。その人々が絞り出しただろう知恵とは? 何かあったはずだと思う。

豪雨

豪雨の被害が重く覆いかぶさる。ようやっと、建てた家なんです、50年前に。80歳の女性が言う。ボートが来るまで生きてたんです、ボートに乗せるまでは。こもごも語る救われた老人2人。兄が弟に電話で言った、冷静に聞け。母ちゃんが流された。
朝一番のテレビを、中腰になったまま見つめる。いきなり緊急警報のけたたましい響き。地震速報画面に切り替わった。
一方、新型コロナウイルスは勢いを緩めない。首都圏では、すでに第二波に入っているように、私には感じられる。東京という区切りは、すでに無意味だ、千葉、埼玉、神奈川と4つまとめて首都圏ではないか。
こんな事態の時に、メダカなんぞと言っていられるものじゃない。

七夕

鶴岡八幡宮にお参りしたのがもう、去年のこととなった。華やかな大くす玉、美しい吹き流し。篠笛の音を好む人たちも楽しみにしている七日間。最近平家物語を通読したことから実朝を、頼朝を思い、鎌倉をあらためて近いところと感じている。
昨日は久々にブログを更新したところ、あっという間に見つけてくださった方が、何はともあれ私の無事を知った安堵の気持ちを伝えてくださった。ありがたいことです。80歳も半ばになると、今日つつがなく在ることのありがたさが素直に身にしみる。
ありがたい、とはこうして今在ることが難い、という意味。難いとは、困難だ、ということ。むずかしいことだ、なかなかないことだ、という意味だろうと思う。
今現在、生きて存在していることが、当たり前なんじゃない、たいそうむずかしいことなんだ、ありえないような大切なことなんだという意味に受け取って味わっている。
九州地方の突然の豪雨で、またたく間に数十人が命を落とした。大水で断たれた命、コロナウイルスで断たれた命。全うすることなく断たれてゆく、数多の命を思う。
降ったり止んだりの日、深々と覆いかぶさる灰色の空の果ての星たちに願おう、夜が明けて朝になり、日が沈み夜が訪れるように、この世に生まれた、あらゆる生き物がやがて老いて枯れるまでを、全うできますように。

梅雨真っ盛り

なんと2週間もブログを留守にしていた。暇なしだった、4時5時に動き始めてめだかの世話をしている間に昼となり、食べたい物を作って食べる、昼寝をする。こうして肝心の本番の出番が押せ押せとなり、夕方を迎えてしまう。
今朝は、あまりの大雨で庭に出られず、九州の球磨川を案じつつ、霧島の友人を案じつつ、メダカはお休みにしてブログへやってきた次第。
コロナの収束が容易でないと予測した時点で、コロナ対策をしなければならない避難所の苦労が気遣われた。豪雨の程度が年毎に激しさを増している故に、今季も例にない豪雨に見舞われるのではないかと心配だった。そしてその通りの激しい豪雨が球磨川を襲った。
痛ましいことだ、観測始まって以来の降雨量という。応援の気持ちを宅急便に託そうとしながら、コロナ騒動が始まって以来、宅急便に頼り切って暮らしている今を振り返った。
宅配のおかげで外出せずに暮らせる。感染防止にどれほど役に立っていることか、計り知れない。最近は「置き配」が常識化して、これは配達員の感染防止に役立っている。日常の中で小さな知恵を出し続けていこう。
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