文房 夢類
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6年目の3.11

今日は東日本大震災・福島原発事故から6年目の311日。日本が戦争に負けて国中が疲弊しきった1945年から10年経った時に「もはや戦後ではない」という声が上がったのを覚えている。そして1964年に東京オリンピックが開催されたときには、戦争のことを口にするものはいなかったように思う。
さて、3.11から10年後に人々はなんというだろう。20年後にはフクシマ原発のことを口にするものがいない世の中になるだろうか。その時わたしは、この世にいないだろう。
阪神淡路大震災から22年が経った。あの時被災地にふたりの友達がいた。兵庫県芦屋市と神戸市東灘区。東灘区の友人は全壊した自宅から箕面市に自主避難した。ワンルームマンションを借りたが、そこは夫婦だけで一杯、子どもとはバラバラの暮らしを余儀なくされた。芦屋の友人の家も全壊したが、夫が不自由な体であるために指定された避難先、小学校へ行かれず、自宅の庭に潰れずに残った小屋にいた。子どもらはバラバラだ。二人とも暴風雨に痛めつけられた草木そのものだった。翌年、芦屋の友人は夫を失った。そして2年後に東灘区に戻った友人が夫と死に別れた。そして自分も癌で倒れた。去年の秋、このふた組の夫婦の、最後の一人が亡くなった。80歳を前にして。とことん頑張ったのだ。夫婦揃って自分の力を信じる頑張り屋であったがゆえに、頑張って我慢をし尽くしたに違いない。あの地震が命を縮めた、私はそう確信している。
戦争の最中、7人家族だった私の生家は、敗戦後1年足らずで5人に減っていた。祖母と赤子が命を縮めたのだった。
芦屋の友人が亡くなる3ヶ月前のこと、電話をかけてくれた。彼女は言った、もう話題にならないわ。じゃなくて話に出さないの。見違えるように綺麗になったし。でも本当はね、何にも変わってないの。同じなのよ、あの日から。
阪神淡路の被災者が、何人も東日本大震災の被災者たちに救援の心を届けたと聞いている。私は、彼女の心の叫びを抱きしめた、100日後に旅立つとも知らないで。
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