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Aug 2020

日めくりカレンダー

生まれて初めて日めくりカレンダーというものを使っている。
これ、使う? とお正月に子どもが見せてくれたのを、欲しいっ とねだってもらい、1日欠かさず1日一枚、めくってきた。
薄い紙の下辺に一行、格言というか、言い習わしている一言が記されている。たとえば「取らぬ狸の皮算用」「子をもって知る親の恩」など。
その一つに「言わぬは言うに勝る」というのがあった。つい、何日か前のことです。
この慣用句の意味するところは、あれこれ言葉を重ねるよりも、じーっと見つめて何も言わない方が、はるかに強く深く、自分の思いを相手に伝えることができるものだ、
というようなことだろうか。恋人同士だったら、目に浮かぶ光景。
でも。
「悪貨は良貨を駆逐する」という格言がある。関係なさそうなこの二つの格言を重ねてみた。
世の中の出来事を目にしながら、そして関係のないことではない政治の動向などについても、よく見ており、よく理解もしているにもかかわらず沈黙を守る人々は多い。
嘘をつき、横車を押し、欲望のままに法律をも歪める政治家を眺めていても沈黙を続ける人々が大勢いる。
市井に埋もれて暮らす無名の一個人が発言しても、何ほどの効果があろうか。むしろ個人としての発言は、マイナス要因として我が身に降りかかってくるだけではないか。だから黙っているのだ。
賢いゆえの沈黙だろう。諦めが根にあるかもしれない。これほど庶民がないがしろにされている政策の渦中で生きてゆくためには、自分で自分の身を守るしかない。止むに止まれぬ選択の沈黙。
結果、はびこるのは悪貨と言える我欲に満ちた政治家集団だ。護身の沈黙は無視され、むしろ不満はないのだと思われ、歪んだ政策が世にはびこる。
良識ある沈黙の集団の思いを集めたら、と夢を追おうとするが無残に暗転してしまう。
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今年のメダカ

今年のメダカ。メダカの季節が終わろうとしている。
ビオトープで越冬したメダカたちは、アライグマに襲われて半減し、ハシボソカラスに狙われて、さらに数を減らした。
その後産卵期を迎えたメダカたちを世話して、増やして育ててきた。折しも新型コロナウイルス来襲という大事件に遭遇して、引きこもりの日々となったために、卵も稚魚も、大人のメダカたちも手厚い世話を受けることとなった。
本来なら熱帯魚店の店頭で餌と産卵用のホテイアオイを買うところだけれど、引きこもっているので通販で手に入れた。ホテイアオイは、なんと北海道からの空輸であった。一緒にタニシも買った。
5月から始めて6月7月、そして8月が終わろうとしている。今年は1日も欠かさず目をかけてきたおかげで、メダカの親も子も、空前絶後の大家族となった。
養育用の小さな容器、私はプラスチックの書類用の引き出しを流用している、このナーサリーで中学3年か高校生程度に育ったメダカを、ビオトープに放してやる。
このとき数を、卒業生の数を数えて記録する。 日によって卒業生の数はまちまちで、6匹、12匹という日もあれば、145匹 207匹という日もあった。大人のメダカに混じっても、十分生きて行ける大きさの子メダカたちだ。
あまり小さいと、親メダカに食われてしまう場合が多い。そのために卵を取り分けて孵化させて育ててきた。
今朝、その合計卒業生数が2562匹となった。おめでとう、みんな猛烈元気。
はじめは2〜3ミリ、成魚でも3〜4センチのメダカだが、それぞれ一つの命、貴重な命を授かった生きものだ。ヒトだってメダカだって、2〜3ミリの時代があってはじめて、今がある。だから目を凝らして数える。
これから秋に向かい体を作り、越冬に耐える体を作っていく。よく見ると私が手をかけた子ではない、自然のままに生まれて生き抜いてきた小さな子が相当混じっている。
タニシは10匹買ったのだが、大豆粒くらいの子タニシが、あちこちにいた。


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『八月がくるたびに』

昨日、9日は長崎に原爆が投下された日だ。長男からのメールの中に、小学校の時の課題図書が『八月がくるたびに』だった、とあった。しまってあった子供向けの本を今、出してきて開いている。
おおえ ひで作、篠原勝之絵、以前にも読んでいるのに、なぜか初めて開くページに見えてくる。そして以前には素通りしていた文字が強い勢いで息づいていた。驚いてしまった。
選ばれた言葉は研ぎ澄まされた鑿で彫られたかのような魂がこもっていた。酷暑の空を見上げる、棟方志功の鑿の航跡が空中に浮かんで見えた。ひらがな90%の、やさしい言葉たちの鋭さ。

この本に記されている原爆は長崎。長崎にはプルトニウム原爆が落とされた。広島に落とされたのはウランだった。
あの日、B29がお日様に衝突したのかな? これは長崎の爆心地から少し離れたところの人たちの推測だった。
マンハッタン計画のもと、戦争終結間際に完成した原爆を実験だけで終わらせるのはもったいない、本番をやりたい、だったらウランだけでなく、もう一つのプルトニウム原爆の方も見てみたい。早くしないと戦争が終わっちゃう! 
こんな風なあわて方をしていた人たちがいたそうだ。
75年の間に1日、1日と歩みを進めてきた検証が、こんなところに来ている。さあ、どっちがほんとうかしら? それとも他の何か? 検証はさらに進んで行く。

私には二つ、手をつなぐ手がある。長崎とつなぐ手だ。
ひとつの手は林京子さん。この方は同人誌「文芸首都」同人だった。私は「文芸首都」の後裔同人誌にいたので先輩たちから林さんのエピソードを聞いて育ってきた。
林さんは原爆のことばっかり、と揶揄されることもあったと聞いているが、原爆一筋に定まる以前はいろいろなものも書いていらした。ごく初期の短編を読んで驚いた。磨けば光る小石だった。原爆のこと以外に、なんだって書けた方だ。
そういう方が一本に絞って力を込めたのが原爆だった。この方の作にたくさん触れたことを、ありがたいと思う。お目にかかったことがない先輩が手渡してくださったもの、ないはずがない。
もう一つは何年か前に長崎の平和公園を訪れた時に出会った人の手だ。爆心地、平和公園の階段下の坂道で出会った同じ年頃の女性。
指をさして、そこの、その辺、そこで主人の母と二人の妹が。そして私の、と続く「あの日」のこと。彼女の案内で丘を登り、マリアさまに祈りを捧げたこと。言い交わしたことは、今までほんとうに黙ってきたということだった。
今夜を一緒に過ごしましょう、話し合いましょうと約束して手を握り合った、今もこの手を離さないでいます。
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広島原爆忌

今日は広島平和記念日、広島原爆忌。75年経った。
忘れない、語り継ぐ、という意志と同時に、今現在の世界の問題として将来を見据えて思案する今日、6日。観念だけではなく日々の生活行動として、ひとつまみの小さなことでもいい、実践してゆきたい。
何の因果か、3.11 福島原発事故は日本で起きた。あれだけ酷い目に遭った日本が原発事故を起こしたのだ。
世界各地で原発事故が多発している、しかし日本では一度もない、という状態であっても誰も驚かないだろう、あれだけ広島が酷い目に遭ったのだから当然だと感じるだろう。
それが世界でいくつと起きていない原発事故が、よりによって被害国の日本で起きた。チェルノブイリ事故と同程度か、いや、それ以上だとさえ言われる大事故を日本人が起こしたのだ。自国の土地、海を汚染させた、この汚染はやがて地球を覆ってゆく。世界中の人々に対して言い訳が立たない。謝って済む問題ではない。薄めて見えなくなった、感じなくなった、で忘れてよい問題ではない。

「原子力の平和利用」という文言に同意して乗った日本が間違っていたと思っています。なぜ、どうして道を踏み外したのか、検証することを思いつきもせず、先へ先へと視線を走らせる態度は間違っていると思う。
たとえ国全体が貧乏しても、日本から原子力発電所をなくしてしまいたい。福島を中心として広がる汚染地域を忘れてはいけない。今も汚染されたままであることを肝に銘じてほしい。75日で消えるのは人の噂だけだ。
福島原発事故の影響を感じつつ生活することこそが、75年前の今日を忘れていないということの証明なのだと思っている。
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