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Jul 2014

町伝説 その2

たったひとつでは、町伝説とも言えないような気がして、もうひとつ聞いている話を披露します。これも、ごく近所のこと。山林を大手の開発業者が造成し、系列の販売会社が一次、二次と段階的に売りに出した。当初は数十坪単位で販売した区画ですが、いまは住宅も住人も老化したので売りに出す人が増えています。しかし今時は数十坪の土地は、広すぎて買い手がつきません。業者が買取り、半分に分けて、洋菓子のように美しい2軒の家を建て、建て売り住宅として売りに出すのが一般的なやり方になっています。そのひとつを買って住み始めた若い家族がありましたが、まもなく手放し、次に買った人は、貸家として利用し始めた。ここまでが前置きで、この洋菓子のような貸家にまつわる噂話です。
東南の角地の白い家。窓枠と雨樋などを灰色に塗った、小さいけれど、上品でお洒落な家。背の高い二階の屋根には、鳩小屋と俗に呼ばれる可愛らしい小屋根の張り出しがあって、換気のための高窓がついています。まるで鳩時計のように見える。開け閉めには、とうてい手が届かないので、紐で開け閉めをすることになりますが、これは最近の流行で人気があるデザインです。そうそう、これも前置きです。
この貸家がすぐに、入居者募集の看板を出す。入居するとまもなく、また引っ越してしまう。通りがかりの人たちには見慣れた風景となっていたのですが、少し離れた地域の人から、この家の噂が伝わってきました。夜、小屋根の窓が開いて顔がみえるという。男か女か、わかりません。わかるほど見届けた人がいないというのが本当のところで、髪も肩も首も、見ていない。顔だけを、誰もがみているという。誰も、といっても深夜に犬の散歩をする人たちだけだそうで、この角まできたときに突然、犬に逃げられています。飼い主の手からリードをもぎとるようにして引きずり、なんと我が家へ逃げ帰ってしまう。しまった、と途方に暮れたとき、小窓が開いていて顔があったという。犬を追いかけるべきときであるのに、ふと見上げたそうです。街灯の光は舗道を照らし、屋根の方向は闇です。その闇のなかに見たという。たぶん、もう少し経つと噂話が成熟して、まとまった町伝説が出来上がるのでしょう。
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町伝説

都市伝説という現代の怪談めいた噂話がある。昨日今日が暑さの最高地点と言われているので、身の回り、自宅近辺に澱む怪談話を、町伝説と銘打ってご披露しよう。近所の人から聞いた話であるから、近所の人々は私よりも詳しいはずである。
地形は武蔵野丘陵の一郭であるから山坂の連なりである。住宅地として開発され、直線道路が数多く作られた。バス通りが私鉄駅に通じているのだが、その途中にトンネルがある。実はあるのではなく作ったのだ。このトンネルの特徴は、坂道トンネルであることだ。例によってコンクリの壁にはスプレーで落書きが施され、それを消した跡が残っている。
このトンネルを通る車に異変が起きる。夜だけである。後部座席から運転者の肩越しに首が出て行く手を見るという。それだけの異変である。怖がらせようとして書いているわけではないから、これだけのことだ。ただ、独りで運転している者だけが出会う。男女の区別はないという。もうひとつ、あった。それはトンネルを下るときだけに出会うのであり、上り坂では出ない。
私は、このトンネルが作られる以前から住んでいるので、もとの野道を知っている。ヤマユリの花が咲き溢れる山裾に、土地の農家のものだろうか、草に埋もれて小さい墓所があった。そのなかの最も小さい墓石に「青幻童女」と彫ってあった。村の童を祀る墓石だろう、それにしても美しい名を、と心に留めたのが、後の私の作品『天明童女』の原型となった。トンネルは、この墓所を削り壊して貫通させている。
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心の歪み

少女が当然姿を消して5日間。前々から不安材料があり、それ故にGPS機能のついたケイタイを持たせ、不審者の乗る車のナンバーを覚えようとしたりしていた母親の苦痛は計り知れない。発見されて無事に家族の元へ戻れた少女のニュースは、最近の暗いニュースの多い中で、人々の心を温め、ホッとさせた。よかった、と誰もが胸をなで下ろした。胸をなで下ろす人々は、素直なまっすぐな心根だ。脅して掠い、防音室に改造した部屋に閉じ込めた犯人は、とことん歪んでいる。どうして、このような歪みを持つ人間が発生するのだろう。少女は勿論、家族にも落ち度はあるはずもない。
いまはどのような規則になっているのか知らないが、昔、子どもたちが幼稚園、小学校をカナダで過ごしていたころは、8歳以下の子どもは、親または親に替わる保護者と一緒でなければ外出してはならない、と決まっていた。送り迎えは当然であった。8歳を越えるとはじめて、親の手を離れて遊びに行くことができる。12歳になると、はじめて大人の仲間入りができる、日常生活の中では、12歳からベビーシッターが出来る、それでお小遣いも貰えるようになる。余談だが、敗戦後、マッカーサーが言ったのか、だれが喋ったのか忘れたが、「日本人は12歳だ」と言われたのを思い出す。12歳という年齢が、何を意味するものかを、私はカナダで身をもって味わった。
どうして12歳を思い出したかというと、今回の誘拐・監禁は、たとえ12歳以上であっても起こり得る事件だ、と言いたかったのだ。単に児童を送り迎えするだけの話ではない。12歳が20歳であっても被害者は出るに違いない。犯人は歪んだ心の持ち主だ。こうした犯罪に対して防犯のノウハウをもっと高めて普及させて欲しい。「コレクター」という恐怖映画を思い出す。有名な映画だから検索してみてください。
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旅立ちの支度

急なことだけれど来月末に外国へ行くことにした。行き先はジャマイカという、はじめて訪れる土地である。さあ、たいへん。ネコの富士には留守番をしてもらわなければならない。鉢植えの葉っぱは、どうしよう。だいたい、恐ろしい蚊がいるというではないか。虫除けスプレーを持たねばならぬ。
旅立つときは、アレを持ち、コレを持ち、とかき集めることになる。しかし、振り返って日常の我が身を観察すると、実は旅立ちの用意に励んでいることに気付くのだ。この着物、大事にしまって置いても誰も着ないでしょう。普段に使って楽しみましょう。すべてが、この調子である。残して置いても誰も使わない。手にとって自問自答して、いま楽しんで使おうと思う。私は旅立ちの支度をしながら暮らしているのだ、と気付いた。
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蛇抜け

梅雨が明けないのに台風が北上した。南木曾で土石流を起こし、少年の命を奪った。ここは馬籠、妻籠に通ずる山道、右も左も山また山で、わずかに見えるのが行く手に伸びる国道である。ふだんでも、ほとばしる大量の水に圧倒される地域だ。南木曾では、土石流が襲い下る山腹の筋を「蛇抜け」(じゃぬけ)と呼ぶという。大蛇が這い降りてくるさまを見たのだと思った。自然の動きは動物に似ている、とつくづく思う。こんな感覚は八百万の神を知る日本人だから、だろうか。何年も前、私が札幌に滞在していたとき、大型の台風がやってきた。2,3メートルの長さの枝が空を飛んだ。紙飛行機のように水平に飛んだ。店のシャッターが段ボールの端切れのように剥がれてゆく。嵐が収まった翌日、私は札幌周辺を足に任せて歩き回った。北海道大学構内では、ハルニレなどの大木が根こそぎひっくり返っていた。その惨状の中を歩いていて、あ、ああっと声を上げた。大風は、ただ一面に、おしなべて吹いていたのではなかったのだ。彼(風)の欲する道を走り抜けていた。それは、巨大な龍が押し通っていった、という有様に見えた。龍がうねり、のたうって通ったあとだけが、滅茶滅茶に破壊されていた。私は、その後を追いかけて歩いた。このときのことを重ねて「蛇抜け」を思った。「鎮まり給へ」と祈る神官の声が聞こえる。南木曽は、思い出の地である。
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太陽の力

半導体の大工場跡を利用して、清浄野菜生産工場をつくった。風雨関係なし、どころか太陽も要らない、土も使わないという。安定して日に1万株のレタスを生産する。スーパーの野菜は、店頭に並ぶ食べ頃から逆算して収穫するから、見栄えのする野菜が並ぶ。これが当たり前の世の中になった。昨日、遠くの知人が家庭菜園の野菜を送ってくれた。トマト、キュウリ、トウモロコシ。小松菜にほうれん草。菜を茹でて驚いた。茹でこぼしの湯が、褐色に近い濃い色合いだった。突然、タイムスリップして子どもに戻った。お母さんが茹でてくれたほうれん草なのだ、これは。土埃を浴びて雨に洗われ、お日様の光をタップリと浴びたほうれん草だ。灰汁が強い。なによりほうれん草の味だった。懐かしい。我に返って不安になった。お勝手に持ち込む野菜から土が消え、いま太陽が消えようとしている。これでいいのだろうか。
『エデンの恐竜』カール・セーガン著を読んでいる。人類は、身体が進化、発達を遂げてのちに、道具を作り始め、文化が発達していったのではない。ある道具が発達する、すると、それに合うように身体も変化する。これを繰り返して来た、と言う説が披露されていた。つまり、環境の影響を受けて、脳を含む全身体は変化するのだ、という考えである。これは怖いことになった。
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