核戦争の瀬戸際で
08-05-18-08:45-
『核戦争の瀬戸際で』My Journey at the Nuclear Brink 著者=William.J.perry ウィリアム・ペリー 訳=松谷基和(まつたに・もとかず)発行=東京堂出版2018-01サイズ=128X187mm 320頁 ¥2500 ISBN9784490209785
著者=1927年アメリカ・ペンシルベニア出身 第二次世界大戦後に米国陸軍の一員として東京・沖縄に滞在。沖縄本島北部の地図作成に携わった。復員後にスタンフォード大学・大学院修士課程(数学)を卒業。ペンシルベニア州立大学博士課程(数学)終了。1964年、防衛関連企業ESLを創業。1977年、カーター政権の国防次官(研究・エンジニアリング担当)に就任。1993年、クリントン政権の国防副長官、’94年、国防長官。妻と5人の子供がいる。退任後も、「核なき世界」を実現するために活動を続けている。
内容=自伝。この自伝は、初めの一行目から全ページを通じて「核兵器による破滅」について、全世界の一般の人たちの認識を高めようという強い願いを込めつつ書いている。
感想=ペリーさんは、2017年、90歳の時に、この本を書いています。評判の高い本で、多くの国々で翻訳され、日本では今年1月に発行されました。
浦賀に「黒船」がやってきた、あのとき黒船を率いて来航したペリー提督、この人は5代前の伯父さんだそうです。
そしてこのペリーさんは、経歴にあるように、大学に入る前の青年時代に終戦直後の1945年に沖縄に派遣され、広島、東京、沖縄と、戦争の傷跡生々しい姿を目にしたと言います。この時の衝撃が非常なものであり、ページのあちこちに、日本の悲惨な姿を思い返しては記し、核は、絶対に使ってはならない、と強調しています。朝鮮戦争の時にマッカーサーが核兵器を使うという提案をしたことを阻止した出来事も記されています。このくだりを読み、そうなのか、マッカーサーはもちろん、原爆の被害地を訪れたことと想像しますが、原子爆弾を次の戦争でも使おうと考えた人だったのだなあ、そういう感性の人も人間なのだなあ、と思いました。
戦争が終わってからスタンフォード大学に入り勉強し、やがて国防次官、国防長官と歩みを進める自分史の足取りを記すと同時に、当時の軍事世界の足取りを辿って行きます。
そこには歴史が動く瞬間の現場に居合わせた人物だからこそ描くことのできる迫真の場面が登場して、思わず身を乗り出してしまう空気に満ちています。例えばゴルバチョフ失脚の件は興味深い、描きようによっては一大ドラマでしょう。しかし彼のスタンスは人間関係の駆け引きなどには向けられず、常に本質を見極めようとする骨太の精神に貫かれているように感じます。
歯に絹を着せず、これは評価する、これは間違っていた、とはっきり書いているところには、自身の言葉に責任を持つ潔さと靭さがあります。
ペリーさんの2度目の沖縄訪問は1996年、海兵隊員が沖縄の少女をレイプした事件への対応のためでした。詳しい記述の後に「私はこの問題で最も影響を受けている人々に直接会ってみたかった。米軍のリーダーや、日本の政治家の助言に従って判断することは避けたかった」と書いていて、誠実さが伺われます。
25章を書き終えて、26章が終章、このタイトルが「日本ーー私の人生を変えた国」。
最後に沖縄を訪れたのは2017年。この本を書き終える直前です。ペリーさんは90歳になっても、極東の日本の、沖縄を気にかけてくれていて飛行機に乗って飛んできたのです。私たち日本人は、どれほど沖縄の心を思いつついるでしょうか。
最新の状況は、と見るに「その後まったく何の行動もとられておらず、基地周辺の住民との摩擦についても、1996年以降、ますます深刻になっていることを知り、非常に心苦しく思った」と記しているのを読んで、私は単に尊敬の念を深くするだけではなく、魂の部分に据えられている宗教的精神を思わないわけにはいきません。ペリーさんがどのような宗教を信じているのか、何もないのか、全く知りませんが、信仰のあるなしに関わらず、神と呼ぶかなんと呼ぶかはともかく、神の手に触れれつつ生きる人のように感じます。
ここには、日本についての記述を取り上げましたが、他の国々についても同様の目配りと、核なき世界への努力を続けてきたことがわかります。
核兵器による破滅の危険度は、今現在が最も高まっているという事実を受け取りたくない、知りたくない、目先の「見た目の平和」という心地よい風呂に温まっていればいいんだ、という人々の意識をどうにかして高めたい思いが溢れています。
著者=1927年アメリカ・ペンシルベニア出身 第二次世界大戦後に米国陸軍の一員として東京・沖縄に滞在。沖縄本島北部の地図作成に携わった。復員後にスタンフォード大学・大学院修士課程(数学)を卒業。ペンシルベニア州立大学博士課程(数学)終了。1964年、防衛関連企業ESLを創業。1977年、カーター政権の国防次官(研究・エンジニアリング担当)に就任。1993年、クリントン政権の国防副長官、’94年、国防長官。妻と5人の子供がいる。退任後も、「核なき世界」を実現するために活動を続けている。
内容=自伝。この自伝は、初めの一行目から全ページを通じて「核兵器による破滅」について、全世界の一般の人たちの認識を高めようという強い願いを込めつつ書いている。
感想=ペリーさんは、2017年、90歳の時に、この本を書いています。評判の高い本で、多くの国々で翻訳され、日本では今年1月に発行されました。
浦賀に「黒船」がやってきた、あのとき黒船を率いて来航したペリー提督、この人は5代前の伯父さんだそうです。
そしてこのペリーさんは、経歴にあるように、大学に入る前の青年時代に終戦直後の1945年に沖縄に派遣され、広島、東京、沖縄と、戦争の傷跡生々しい姿を目にしたと言います。この時の衝撃が非常なものであり、ページのあちこちに、日本の悲惨な姿を思い返しては記し、核は、絶対に使ってはならない、と強調しています。朝鮮戦争の時にマッカーサーが核兵器を使うという提案をしたことを阻止した出来事も記されています。このくだりを読み、そうなのか、マッカーサーはもちろん、原爆の被害地を訪れたことと想像しますが、原子爆弾を次の戦争でも使おうと考えた人だったのだなあ、そういう感性の人も人間なのだなあ、と思いました。
戦争が終わってからスタンフォード大学に入り勉強し、やがて国防次官、国防長官と歩みを進める自分史の足取りを記すと同時に、当時の軍事世界の足取りを辿って行きます。
そこには歴史が動く瞬間の現場に居合わせた人物だからこそ描くことのできる迫真の場面が登場して、思わず身を乗り出してしまう空気に満ちています。例えばゴルバチョフ失脚の件は興味深い、描きようによっては一大ドラマでしょう。しかし彼のスタンスは人間関係の駆け引きなどには向けられず、常に本質を見極めようとする骨太の精神に貫かれているように感じます。
歯に絹を着せず、これは評価する、これは間違っていた、とはっきり書いているところには、自身の言葉に責任を持つ潔さと靭さがあります。
ペリーさんの2度目の沖縄訪問は1996年、海兵隊員が沖縄の少女をレイプした事件への対応のためでした。詳しい記述の後に「私はこの問題で最も影響を受けている人々に直接会ってみたかった。米軍のリーダーや、日本の政治家の助言に従って判断することは避けたかった」と書いていて、誠実さが伺われます。
25章を書き終えて、26章が終章、このタイトルが「日本ーー私の人生を変えた国」。
最後に沖縄を訪れたのは2017年。この本を書き終える直前です。ペリーさんは90歳になっても、極東の日本の、沖縄を気にかけてくれていて飛行機に乗って飛んできたのです。私たち日本人は、どれほど沖縄の心を思いつついるでしょうか。
最新の状況は、と見るに「その後まったく何の行動もとられておらず、基地周辺の住民との摩擦についても、1996年以降、ますます深刻になっていることを知り、非常に心苦しく思った」と記しているのを読んで、私は単に尊敬の念を深くするだけではなく、魂の部分に据えられている宗教的精神を思わないわけにはいきません。ペリーさんがどのような宗教を信じているのか、何もないのか、全く知りませんが、信仰のあるなしに関わらず、神と呼ぶかなんと呼ぶかはともかく、神の手に触れれつつ生きる人のように感じます。
ここには、日本についての記述を取り上げましたが、他の国々についても同様の目配りと、核なき世界への努力を続けてきたことがわかります。
核兵器による破滅の危険度は、今現在が最も高まっているという事実を受け取りたくない、知りたくない、目先の「見た目の平和」という心地よい風呂に温まっていればいいんだ、という人々の意識をどうにかして高めたい思いが溢れています。