老人と海THE OLD MAN and THE SEA
06-12-14-14:48-
『老人と海』THE OLD MAN and THE SEA 著者=アーネスト・ヘミングウェイ ERNEST HEMINGWAY 訳=福田恒存 発行=新潮文庫 1966年 /Bantam Book published by arrangement with Charles Scribner’s Sons 1947
著者=1899~1961アメリカの小説家・詩人 1954年にノーベル文学賞受賞
訳者=1912~1994 評論家・翻訳家・劇作家
内容=キューバの老漁夫が小舟で漁に出て、巨大なマグロを取ったが、帰途獲物を鮫に食われてしまう。
感想=手持ちの文庫本は、1966年初版、84刷の1995年に買ったもの。英文のペーパーバックは1952年初版の1965年版。
スペンサー・トレイシー主演で映画化されたのを観たのが最初だった。映画に感動したので読んで、原作はこのようだったかと思った。たくさん読みたい本がある。次の本へ行こう、と急く気持ちで伏せられた『老人と海』は、その後ずっと棚に立っていた。今夏、小舟の船端から手を海に入れて、何メートルも下までも透明な海水、その底の白砂、このカリブ海に触れたとき、私はキューバの老漁夫を思い出していた。
改めて読んだのだから感想を書くべきなのだ。が、私は文庫本のページを繰りながら、ん? と立ち止まってはカリブ海に目を放った。二階の書棚を巡り歩き、きっとあるよ、と私は英文の本を探した。息子が置いて行った英文のペーパーバックを見つけて、やったね、と満足。焼けが激しく、ほとんど茶渋色だ。もちろん私は訳本を読む方が手っ取り早いので開いたこともなかったのだが、心から読みたいと感じた。
キューバの漁村、少年と老人がいる。老人は一人で小舟で漁に出る。4日後にもどり、力尽きて眠る老人を少年が介抱する。舟には巨大な魚の骨が括り付けられていた。ほかに、なにを伝えることができるだろう、これから読んでみようかという読者に、私の言葉にとりかえて伝えることができる内容は、ほかにはない。
何を感じたか、だったら多少話せるだろう、カリブ海の1マイル下の海の色。貿易風。白い砂。微風。真の闇の中から次第に現れる長い島、キューバの輪郭。しかし、これらはカリブ海に接した故に、思い出される感触であって、太平洋しか知らない人、日本海に馴染んでいる人にとっては、文字でしかないだろう。
ヘミングウェイの遺作『海流の中の島々』(ISLANDS IN THE STREAM)は、彼の没後、メアリー・ヘミングウェイが残された原稿のなかからみつけて刊行した作品である。『老人と海』という短編は、実はこの『海流の中の島々』の副産物ともいえる作品なのだ、と言われるほど隣接した作品である。一緒に連れてって、とせがむ少年と同じ年頃の時に読むのと、老人の年齢に達して読むのと、どちらにも訴えてくる力がある。巨大な魚は、老人にとって何者なのか。死について、祈りについて思いを馳せる老人とのつきあいは、読む側をも疲労困憊させる。私は、最後にマストを担いで小屋へ上がってゆく時にいたり、老人を基督のように感じた。仏教のお坊さんに通ずる行住坐臥の心境で祈る人のようにも見えて、キリスト教徒ではない身からは、解ったようなことを口にできないと、つくづく感じた。つまり私は、老年になり再読したが、この作品について、まだ解らない部分がいくらでもあるのだ、ということがよく分かった。
翻訳というものは、安易に行うべきではない、とあらためて感じた。ひとこと多い、とは思うけれど、言わずにいられないのが、翻訳する人のことで、せめて現地を知っている人に手がけて頂きたいと思う。できることなら通年生活した人。一家言を持っていて、理屈もこねるという人には手がけて欲しくない。誤訳は論外。曲訳は自己満足以外の何物でもない、弊害あって一利なしである。
著者=1899~1961アメリカの小説家・詩人 1954年にノーベル文学賞受賞
訳者=1912~1994 評論家・翻訳家・劇作家
内容=キューバの老漁夫が小舟で漁に出て、巨大なマグロを取ったが、帰途獲物を鮫に食われてしまう。
感想=手持ちの文庫本は、1966年初版、84刷の1995年に買ったもの。英文のペーパーバックは1952年初版の1965年版。
スペンサー・トレイシー主演で映画化されたのを観たのが最初だった。映画に感動したので読んで、原作はこのようだったかと思った。たくさん読みたい本がある。次の本へ行こう、と急く気持ちで伏せられた『老人と海』は、その後ずっと棚に立っていた。今夏、小舟の船端から手を海に入れて、何メートルも下までも透明な海水、その底の白砂、このカリブ海に触れたとき、私はキューバの老漁夫を思い出していた。
改めて読んだのだから感想を書くべきなのだ。が、私は文庫本のページを繰りながら、ん? と立ち止まってはカリブ海に目を放った。二階の書棚を巡り歩き、きっとあるよ、と私は英文の本を探した。息子が置いて行った英文のペーパーバックを見つけて、やったね、と満足。焼けが激しく、ほとんど茶渋色だ。もちろん私は訳本を読む方が手っ取り早いので開いたこともなかったのだが、心から読みたいと感じた。
キューバの漁村、少年と老人がいる。老人は一人で小舟で漁に出る。4日後にもどり、力尽きて眠る老人を少年が介抱する。舟には巨大な魚の骨が括り付けられていた。ほかに、なにを伝えることができるだろう、これから読んでみようかという読者に、私の言葉にとりかえて伝えることができる内容は、ほかにはない。
何を感じたか、だったら多少話せるだろう、カリブ海の1マイル下の海の色。貿易風。白い砂。微風。真の闇の中から次第に現れる長い島、キューバの輪郭。しかし、これらはカリブ海に接した故に、思い出される感触であって、太平洋しか知らない人、日本海に馴染んでいる人にとっては、文字でしかないだろう。
ヘミングウェイの遺作『海流の中の島々』(ISLANDS IN THE STREAM)は、彼の没後、メアリー・ヘミングウェイが残された原稿のなかからみつけて刊行した作品である。『老人と海』という短編は、実はこの『海流の中の島々』の副産物ともいえる作品なのだ、と言われるほど隣接した作品である。一緒に連れてって、とせがむ少年と同じ年頃の時に読むのと、老人の年齢に達して読むのと、どちらにも訴えてくる力がある。巨大な魚は、老人にとって何者なのか。死について、祈りについて思いを馳せる老人とのつきあいは、読む側をも疲労困憊させる。私は、最後にマストを担いで小屋へ上がってゆく時にいたり、老人を基督のように感じた。仏教のお坊さんに通ずる行住坐臥の心境で祈る人のようにも見えて、キリスト教徒ではない身からは、解ったようなことを口にできないと、つくづく感じた。つまり私は、老年になり再読したが、この作品について、まだ解らない部分がいくらでもあるのだ、ということがよく分かった。
翻訳というものは、安易に行うべきではない、とあらためて感じた。ひとこと多い、とは思うけれど、言わずにいられないのが、翻訳する人のことで、せめて現地を知っている人に手がけて頂きたいと思う。できることなら通年生活した人。一家言を持っていて、理屈もこねるという人には手がけて欲しくない。誤訳は論外。曲訳は自己満足以外の何物でもない、弊害あって一利なしである。