HIROHITO
01-08-15-22:48-
HIROHITO AND THE MAKING OF MODERN JAPAN 発行=HarperCollins Publishers Inc.2000年 本文=P688 註・索引=126頁 写真=16頁 サイズ=135 X 210 ISBN 0-06-09314-X
PULITZER PRIZE 2001 THE NATIONAL BOOK CRITICS CIRCLE AWARD
『昭和天皇』上下 発行=講談社2002年 監修=吉田 裕 訳= 岡部牧夫・川島高峰・永井均 ISBN9784062105910
著者=HERBERT P. BIX=1938年米国マサチューセッツ生まれ ハーバード大学・専門は歴史学・東洋言語学 30年にわたり日米の大学で日本史を教える。現在ニューヨーク州立大学ビンガムトン教授
内容=1901年(明治34)皇太子誕生から始まり、1945年敗戦、死去。その後20世紀末までを含めて「裕仁」を描写している。
あらましを伝えるために、目次を転記する。
序章
第一部 皇太子の教育 (生育時代)
第二部 仁愛の政治 (摂政時代・政治的君主の誕生)
第三部 陛下の戦争 (満州事変・昭和維新と統制・聖戦)
第四部 内省なきその人生(東京裁判・晩年)
感想= 読み終えるのに、たいそう時間をかけた。時間がかかったのは無理もないことだった。私にとって第三部以降は、いまも現在なのだ。
日本国が起こした戦争と敗戦という大事件が、自分の人生の始まりから並んで時を刻んできた。明治天皇という人、その息子の大正天皇、私の感覚では天皇陛下と言えば昭和天皇その人であるから、本書に寄せる関心は深く、始終、記憶と付き合わせて読む必要があった。書物から目を上げて、しばしば私は「そのころ」を彷徨った。
本書を執筆するにあたっての、著者の姿勢がよい。背筋を伸ばし、まっすぐに両足を踏みしめ、揺るぎがない。視力聴力をはじめ、五感すべてが清涼に研ぎ澄まされている。ずば抜けた体力の持ち主である。周辺に、奥さんをはじめとして、よい助力者が集まっているように見受ける。日本語訳のほうが感覚に沿っていた点は地名人名が漢字で記されていることで、これは無条件によかった。
いままでにもこの時代の記録は読んできたが、筆者の立ち位置がハッキリ決まっており、相対する側に向かっている姿勢があるので、感情を伴う記録になっていると感じていた。それらの書物により、あるいは口伝えによって得た知識は、誰かを悪者として、花形人物を賛美するという色合いを持っていた。勿論私はその色合いに染まっており、軍神を賛美しA級戦犯の誰彼を憎んだ。もっとも大きな特徴は、天皇陛下については、どこからも、だれからも、なにもなかったことだ、表向きは。そう、表向きは、であり、でも、と続けられる声を潜めた部分には、天皇への非難が込められていた。もっとも多い天皇への非難は、なぜヒロシマ以前に降伏の放送をしなかったか、というものだ。
この書には、そこが記されている。そして裕仁本人へ常に照準を合わせ、横道に逸れることはない。
安心と信頼を持って読むことができた原因は、裕仁の言動の記述の基礎に、たしかな調査、検証が行われており、確証のもとに現れた結果を、率直、平易に記している点にある。
さて、裕仁本人に対する感想は、彼が、非常に自己保存欲の強い人間であったこと、天皇の位に対する執着もきわめて強かったことが、国民が受けた影響と思い合わせて合点がいったことだ。この性質と並ぶ彼の特徴、国を我が所有物と認識し、とことん政治に関与してきたこと、関与しながらも陸海両軍を采配できぬ無能ぶりを発揮し、敗戦後も政治に指示を出せなくなったことを不満として報告を要求し、現実の認識に欠けていたことについて唖然とした。大きな岐路に立たされたときに彼は、決断をしていたのではなかった、常に「ここに至りては、致し方なし」という決断とは言えない追い詰められ的言辞であったことには、彼の性格、人格、能力面からみて深く納得がいった。ビックスは最後に、彼が謝った相手はただひとり、先祖の霊であったと書いている。
付け加えたいことがある。それは、本書の最終ページにある以下の文章だ。
1990年12月、皇太子明仁が即位を終わり、記者団のインタビューを受けた。このとき記者から(即位式の天皇陛下万歳の三唱から)戦争を連想しなかったかと尋ねられた天皇は、「私の世代は[戦争とは]かかわりのない時代に長く生きているので[戦争を思い出したということは]ありません」と答えた。その後毎年誕生日を前にした記者会見が恒例となったが、戦争をめぐる深刻な質問はそれ以来なくなった。 引用終
今に生きる日本人に言いたい。「あいまいさ」のぬるま湯から出て、フィルターを外した自分自身の目で見る努力をしませんか。私がいままで信じていたこと、天皇陛下は戦争について報告を受けるだけで何も知らなかった。あるいは東京裁判は勝者の一方的な裁判だった。もっとあるが、これらは大嘘だった。
御前会議は儀式ではなかった。天皇を頂点とする作戦立案の場であり、裕仁の裁可なしには何も動かなかった。東京裁判のための重要な下ごしらえは、マッカーサー側と日本側の協同作業で行われ、裕仁を裁判の場に出さない、無罪どころか関係のない人物として隠しおおすために最大の努力が払われた。表だった罪は東条英機に集められ、彼の答弁は指示された言葉だった。
私が口伝えに聞いていたことは、当時の皇太子明仁、現天皇は戦時中、日光の光徳小屋という山小屋、これは学習院の校外施設だ、ここにご学友と疎開していた、ご苦労をなさった、ということだったが、実はホテルにいたのだ。全身の血液が逆流するほどの憤激を覚えたのが、先に紹介した記者会見における彼の感想だ。「私の世代は(戦争とは)関わりのない時代に長く生きているので、(戦争を思い出したということは)ありません」。東京で生き延びてきた私は、彼より2才年下だ。「私の世代」などと軽々しく一緒にして欲しくない。
PULITZER PRIZE 2001 THE NATIONAL BOOK CRITICS CIRCLE AWARD
『昭和天皇』上下 発行=講談社2002年 監修=吉田 裕 訳= 岡部牧夫・川島高峰・永井均 ISBN9784062105910
著者=HERBERT P. BIX=1938年米国マサチューセッツ生まれ ハーバード大学・専門は歴史学・東洋言語学 30年にわたり日米の大学で日本史を教える。現在ニューヨーク州立大学ビンガムトン教授
内容=1901年(明治34)皇太子誕生から始まり、1945年敗戦、死去。その後20世紀末までを含めて「裕仁」を描写している。
あらましを伝えるために、目次を転記する。
序章
第一部 皇太子の教育 (生育時代)
第二部 仁愛の政治 (摂政時代・政治的君主の誕生)
第三部 陛下の戦争 (満州事変・昭和維新と統制・聖戦)
第四部 内省なきその人生(東京裁判・晩年)
感想= 読み終えるのに、たいそう時間をかけた。時間がかかったのは無理もないことだった。私にとって第三部以降は、いまも現在なのだ。
日本国が起こした戦争と敗戦という大事件が、自分の人生の始まりから並んで時を刻んできた。明治天皇という人、その息子の大正天皇、私の感覚では天皇陛下と言えば昭和天皇その人であるから、本書に寄せる関心は深く、始終、記憶と付き合わせて読む必要があった。書物から目を上げて、しばしば私は「そのころ」を彷徨った。
本書を執筆するにあたっての、著者の姿勢がよい。背筋を伸ばし、まっすぐに両足を踏みしめ、揺るぎがない。視力聴力をはじめ、五感すべてが清涼に研ぎ澄まされている。ずば抜けた体力の持ち主である。周辺に、奥さんをはじめとして、よい助力者が集まっているように見受ける。日本語訳のほうが感覚に沿っていた点は地名人名が漢字で記されていることで、これは無条件によかった。
いままでにもこの時代の記録は読んできたが、筆者の立ち位置がハッキリ決まっており、相対する側に向かっている姿勢があるので、感情を伴う記録になっていると感じていた。それらの書物により、あるいは口伝えによって得た知識は、誰かを悪者として、花形人物を賛美するという色合いを持っていた。勿論私はその色合いに染まっており、軍神を賛美しA級戦犯の誰彼を憎んだ。もっとも大きな特徴は、天皇陛下については、どこからも、だれからも、なにもなかったことだ、表向きは。そう、表向きは、であり、でも、と続けられる声を潜めた部分には、天皇への非難が込められていた。もっとも多い天皇への非難は、なぜヒロシマ以前に降伏の放送をしなかったか、というものだ。
この書には、そこが記されている。そして裕仁本人へ常に照準を合わせ、横道に逸れることはない。
安心と信頼を持って読むことができた原因は、裕仁の言動の記述の基礎に、たしかな調査、検証が行われており、確証のもとに現れた結果を、率直、平易に記している点にある。
さて、裕仁本人に対する感想は、彼が、非常に自己保存欲の強い人間であったこと、天皇の位に対する執着もきわめて強かったことが、国民が受けた影響と思い合わせて合点がいったことだ。この性質と並ぶ彼の特徴、国を我が所有物と認識し、とことん政治に関与してきたこと、関与しながらも陸海両軍を采配できぬ無能ぶりを発揮し、敗戦後も政治に指示を出せなくなったことを不満として報告を要求し、現実の認識に欠けていたことについて唖然とした。大きな岐路に立たされたときに彼は、決断をしていたのではなかった、常に「ここに至りては、致し方なし」という決断とは言えない追い詰められ的言辞であったことには、彼の性格、人格、能力面からみて深く納得がいった。ビックスは最後に、彼が謝った相手はただひとり、先祖の霊であったと書いている。
付け加えたいことがある。それは、本書の最終ページにある以下の文章だ。
1990年12月、皇太子明仁が即位を終わり、記者団のインタビューを受けた。このとき記者から(即位式の天皇陛下万歳の三唱から)戦争を連想しなかったかと尋ねられた天皇は、「私の世代は[戦争とは]かかわりのない時代に長く生きているので[戦争を思い出したということは]ありません」と答えた。その後毎年誕生日を前にした記者会見が恒例となったが、戦争をめぐる深刻な質問はそれ以来なくなった。 引用終
今に生きる日本人に言いたい。「あいまいさ」のぬるま湯から出て、フィルターを外した自分自身の目で見る努力をしませんか。私がいままで信じていたこと、天皇陛下は戦争について報告を受けるだけで何も知らなかった。あるいは東京裁判は勝者の一方的な裁判だった。もっとあるが、これらは大嘘だった。
御前会議は儀式ではなかった。天皇を頂点とする作戦立案の場であり、裕仁の裁可なしには何も動かなかった。東京裁判のための重要な下ごしらえは、マッカーサー側と日本側の協同作業で行われ、裕仁を裁判の場に出さない、無罪どころか関係のない人物として隠しおおすために最大の努力が払われた。表だった罪は東条英機に集められ、彼の答弁は指示された言葉だった。
私が口伝えに聞いていたことは、当時の皇太子明仁、現天皇は戦時中、日光の光徳小屋という山小屋、これは学習院の校外施設だ、ここにご学友と疎開していた、ご苦労をなさった、ということだったが、実はホテルにいたのだ。全身の血液が逆流するほどの憤激を覚えたのが、先に紹介した記者会見における彼の感想だ。「私の世代は(戦争とは)関わりのない時代に長く生きているので、(戦争を思い出したということは)ありません」。東京で生き延びてきた私は、彼より2才年下だ。「私の世代」などと軽々しく一緒にして欲しくない。