コーヒーもう一杯
07-03-17-09:16-
『コーヒーもう一杯』著者=山川直人(やまかわ なおと)発行=エンターブレイン2009年1-5巻セット BEAM COMIX サイズ128X182mm平均頁210 ISBN4757727305¥@650
著者=漫画家1962年東京出身高校卒業後フリーター生活で同人誌活動、漫画家を目指した。これは一昔前の純文学青年と重なる生き方に映る。商業誌で活躍する一方、自費出版の作品発表、同人誌活動も続けている。作画は隅々まで綿密な手書きで強烈な特徴を持つ。
内容=コミックビームに連載した作品。一話完結。1冊に12話。全巻モノクロ。目次の前の頁にカラーの一枚絵。
感想=タイトルは、Bob Dylanが1976年にリリースしたアルバムDesireに収録されている曲、One More Cup of Coffeeからとっている。ディランの曲を聴きながら描いている、とあとがきに書いているが心底ディランのファンで、いくつも好きな曲名をタイトルに使っている。
ボブ・ディランはもてはやされて有名で、誰でも知っている、そういう人ではない。この作品を書いているころ、著者も出版社も、まさかノーベル賞を受賞する歌手とは夢にも思わなかったろう。
ディランは、日本で言えば「平家物語」を琵琶を抱いて歌う坊主、西洋では「オデュッセイア」を語るホーメロス、あるいはジプシーの辻歌いなどの原点とつながる吟遊詩人だと思う。このコミックの帯に編集者が山川直人を「漫画界の吟遊詩人」と表現したとき、ディランを思い浮かべていたとは想像しにくい。人間の感性とは、なんという凄さだろう。
体質が同類であるのだろうが、もう一つ、ディランは創作者を惹きよせるフェロモンを発散する作家なのだ、ということがある。どこが、なぜ? そんな芸術論を話し合える人に会いたいと思う。
1話ごとの感想となるときりがない。 こんな感じかな。
ん。いい……。
いいよ、これ。
でしょ。
まるで一杯のコーヒーじゃないか、一話、一話が。
なかなかのブレンドなんだ、お代わりするの、もったいない。
毎晩、一杯、いいね。
見返しの次のページ、目次の前にカラーの絵がある。
原画のサイズがわからないが、美術展に出ていたら引き寄せられる、実にすばらしい絵だ。ゴッホ、ルオーを思う、そういう味わいだ。ファインアートも文学も、すべて体内に抱え込んでいるのが見える。こういう作家が漫画フィールドで活躍していることは、文学に拘泥している側から見ると恐怖感に似た衝撃を覚える。
例えば「雨の日の女」。これもRainy Day Women 1966 のタイトルだが内容は関係ない。
昔の女が雨の夜、コーヒーショップに現れる。マスターがコーヒーを淹れる。二人の過去、そして今。逆巻く思い。無口な男の心情が絵になる、コーヒカップを置く時の擬音文字が音となって頁から噴きあがる。
著者=漫画家1962年東京出身高校卒業後フリーター生活で同人誌活動、漫画家を目指した。これは一昔前の純文学青年と重なる生き方に映る。商業誌で活躍する一方、自費出版の作品発表、同人誌活動も続けている。作画は隅々まで綿密な手書きで強烈な特徴を持つ。
内容=コミックビームに連載した作品。一話完結。1冊に12話。全巻モノクロ。目次の前の頁にカラーの一枚絵。
感想=タイトルは、Bob Dylanが1976年にリリースしたアルバムDesireに収録されている曲、One More Cup of Coffeeからとっている。ディランの曲を聴きながら描いている、とあとがきに書いているが心底ディランのファンで、いくつも好きな曲名をタイトルに使っている。
ボブ・ディランはもてはやされて有名で、誰でも知っている、そういう人ではない。この作品を書いているころ、著者も出版社も、まさかノーベル賞を受賞する歌手とは夢にも思わなかったろう。
ディランは、日本で言えば「平家物語」を琵琶を抱いて歌う坊主、西洋では「オデュッセイア」を語るホーメロス、あるいはジプシーの辻歌いなどの原点とつながる吟遊詩人だと思う。このコミックの帯に編集者が山川直人を「漫画界の吟遊詩人」と表現したとき、ディランを思い浮かべていたとは想像しにくい。人間の感性とは、なんという凄さだろう。
体質が同類であるのだろうが、もう一つ、ディランは創作者を惹きよせるフェロモンを発散する作家なのだ、ということがある。どこが、なぜ? そんな芸術論を話し合える人に会いたいと思う。
1話ごとの感想となるときりがない。 こんな感じかな。
ん。いい……。
いいよ、これ。
でしょ。
まるで一杯のコーヒーじゃないか、一話、一話が。
なかなかのブレンドなんだ、お代わりするの、もったいない。
毎晩、一杯、いいね。
見返しの次のページ、目次の前にカラーの絵がある。
原画のサイズがわからないが、美術展に出ていたら引き寄せられる、実にすばらしい絵だ。ゴッホ、ルオーを思う、そういう味わいだ。ファインアートも文学も、すべて体内に抱え込んでいるのが見える。こういう作家が漫画フィールドで活躍していることは、文学に拘泥している側から見ると恐怖感に似た衝撃を覚える。
例えば「雨の日の女」。これもRainy Day Women 1966 のタイトルだが内容は関係ない。
昔の女が雨の夜、コーヒーショップに現れる。マスターがコーヒーを淹れる。二人の過去、そして今。逆巻く思い。無口な男の心情が絵になる、コーヒカップを置く時の擬音文字が音となって頁から噴きあがる。