永遠の0
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『永遠の0ゼロ』百田尚樹(ひゃくた なおき)著 2009年講談社文庫発行ISBN978-4-06-276413-1¥876 589頁
著者=1956年大阪生まれ。放送作家から作家へ。
本書は2006年太田出版より単行本として刊行、口コミで人気上昇して、現在講談社文庫で24版。100万部突破、映画化決定という帯がついている。太重斎からのプレゼントだった。表紙を見たが、知らない作家。タイトルも聞いたことも見たこともない。永遠の、となると天童荒太の『永遠の仔』が頭の中で検索にひっかかるが、実はこの天童荒太も『悼む人』しか読んでいない。まったくの白紙で読んだ。構成が達者で、いわゆる入れ子づくり。文章が修行した人の手でない。しかし読み進むうちに、今時代はこれでよいのだ、とも考えた。若い人のものを読んでいないのだから素直に読もうと思った。
さて、ゼロとは零戦だった。山本長官。戦艦大和。ガダルカナル。もうだめだ。目の前の文字から気持ちが浮き上がって、あの時代へ飛んでしまう。ほんの子どもだった、しかも女の子だった私が、あの戦争のどれだけを知っているのか、知りはしない。その私が今年は喜寿である。ほんとうに戦地で戦った男たちの、ほとんどが鬼籍に入っている。本書の中でも、あと5年したら聞けない話、と言っている場面が出てくるが、その通りなのだ。
アマゾンの書評が500を突破している。しかも☆5つの批評と並んで☆1個がひしめく。これにも目を通した。
本書は存在価値がある。戦争を知らない人たちに読んで貰いたい。正確でない部分、これは、こうじゃない、といった、私でさえも口を挟みたくなる部分もあるけれど、そんなことは問題ではないだろう。これまでに刊行されている大東亜戦争の記録を今のままの状態でおいたら、いったい誰が読むだろう? これだったら読んで、友達とも話題にするだろう。入れ子にしている話のひとつ、ひとつが短く完結するために、長編ではあるが読みやすいものになっている。この、入れ子の手法は古典的なもので、誰かのパクリと言った☆1個の批評は当たらない。著者が放送作家で、しかも構成作家だったところから、その手腕が発揮されているのであって、だからこそ、多くの読者が最後まで行かれるのだ。
これは小説であって、実録とは違うのだから、これで良いと思った。話題にして欲しい本。よいキャストで映画化して欲しい。
アマゾンの批評の批評。大感激している向きはそれとして、辛い点をつけている人たちの多くが「戦記物が好きで」たくさん読んでいる、という前置きをして酷評している。小説を楽しむなら結構だが、戦争の実録は、そんなお楽しみじゃない。好きなのは勝手だが、戦争に関してどう考えているのだろう。この作品では、訪問先の老人がどんどん喋っているが、いやもう、ほんとうに沈黙しているものだ。手のひらの窪みに水をのせた、そのくらいの分量を、ぽつりと話すのがやっと。たいていは、はぐらかす。風呂桶一杯の記憶を抱えているのに。私は、そのような人に何人もお目にかかってきたので、事実とフィクションは別、と割り切っている。この物語は、受け入れやすい、今の時代に合っているものと感じています。どうか読んでみてください。あの戦争で戦死した若者たちに、私が心底涙したのは、信州の山奥、名もない山寺の本堂、といってもそれっきりの祠の板壁に、和尚さまが村の戦死者の姓名と年齢を墨書して祈っている後ろにいたときです。その数。その年齢。聞こえるのは読経の声のみだが、それこそ号泣したい心地であった。
著者=1956年大阪生まれ。放送作家から作家へ。
本書は2006年太田出版より単行本として刊行、口コミで人気上昇して、現在講談社文庫で24版。100万部突破、映画化決定という帯がついている。太重斎からのプレゼントだった。表紙を見たが、知らない作家。タイトルも聞いたことも見たこともない。永遠の、となると天童荒太の『永遠の仔』が頭の中で検索にひっかかるが、実はこの天童荒太も『悼む人』しか読んでいない。まったくの白紙で読んだ。構成が達者で、いわゆる入れ子づくり。文章が修行した人の手でない。しかし読み進むうちに、今時代はこれでよいのだ、とも考えた。若い人のものを読んでいないのだから素直に読もうと思った。
さて、ゼロとは零戦だった。山本長官。戦艦大和。ガダルカナル。もうだめだ。目の前の文字から気持ちが浮き上がって、あの時代へ飛んでしまう。ほんの子どもだった、しかも女の子だった私が、あの戦争のどれだけを知っているのか、知りはしない。その私が今年は喜寿である。ほんとうに戦地で戦った男たちの、ほとんどが鬼籍に入っている。本書の中でも、あと5年したら聞けない話、と言っている場面が出てくるが、その通りなのだ。
アマゾンの書評が500を突破している。しかも☆5つの批評と並んで☆1個がひしめく。これにも目を通した。
本書は存在価値がある。戦争を知らない人たちに読んで貰いたい。正確でない部分、これは、こうじゃない、といった、私でさえも口を挟みたくなる部分もあるけれど、そんなことは問題ではないだろう。これまでに刊行されている大東亜戦争の記録を今のままの状態でおいたら、いったい誰が読むだろう? これだったら読んで、友達とも話題にするだろう。入れ子にしている話のひとつ、ひとつが短く完結するために、長編ではあるが読みやすいものになっている。この、入れ子の手法は古典的なもので、誰かのパクリと言った☆1個の批評は当たらない。著者が放送作家で、しかも構成作家だったところから、その手腕が発揮されているのであって、だからこそ、多くの読者が最後まで行かれるのだ。
これは小説であって、実録とは違うのだから、これで良いと思った。話題にして欲しい本。よいキャストで映画化して欲しい。
アマゾンの批評の批評。大感激している向きはそれとして、辛い点をつけている人たちの多くが「戦記物が好きで」たくさん読んでいる、という前置きをして酷評している。小説を楽しむなら結構だが、戦争の実録は、そんなお楽しみじゃない。好きなのは勝手だが、戦争に関してどう考えているのだろう。この作品では、訪問先の老人がどんどん喋っているが、いやもう、ほんとうに沈黙しているものだ。手のひらの窪みに水をのせた、そのくらいの分量を、ぽつりと話すのがやっと。たいていは、はぐらかす。風呂桶一杯の記憶を抱えているのに。私は、そのような人に何人もお目にかかってきたので、事実とフィクションは別、と割り切っている。この物語は、受け入れやすい、今の時代に合っているものと感じています。どうか読んでみてください。あの戦争で戦死した若者たちに、私が心底涙したのは、信州の山奥、名もない山寺の本堂、といってもそれっきりの祠の板壁に、和尚さまが村の戦死者の姓名と年齢を墨書して祈っている後ろにいたときです。その数。その年齢。聞こえるのは読経の声のみだが、それこそ号泣したい心地であった。