1937
22-09-16-10:06-
『1937』増補版 著者=辺見 庸(へんみ よう)発行=河出書房 2016年 サイズ=128X187 402頁¥2300ISBN9784309247526
著者=1944年宮城県生まれ。1996年まで共同通信社勤務。芥川賞他多数受賞。
内容=タイトルの数字の間に星印を挟み、カタカナでイクミナとルビを振ってある。これは増補版で河出書房から2016年3月20日に発行されており、初回は、2015年10月22日に出版社金曜日から発行されている。
本書は、2015年1月30日から7月31日まで『週刊金曜日』に連載されたもので、加筆修正を加えて増補としてある。1937とは年号であり、この年に、どこで何が行われたかを軸に、南京大虐殺、天皇の本質などをめぐり、8章に分類して自身の過去と現在を絡み合わせて吟味している。
感想=一度も読んだことのない作家。雑文にも触れたことがなかったので、新鮮だった。
しょっぱなから当惑したことがある。それは平仮名と漢字の使い分けが、著者独自のものであり、読みにくさが先に立った点だ。
熟語を平仮名で書く場合が多い。いちぶ、とある。これは一部の意味だな、と読取らねばならない。たんじゅん。じゅうぶん。なんだ、これは、と気持ちが引けてくる。だぶん。駄文か、と先を読むと、だぶんと鈍い音がして、とあり、擬音と判明するのだ。だったら徹底的に平仮名主義かというと、そうではない。漢字をつかい、ルビまで振っている。私には不要なルビだが、ルビをつけなければ読者が困るだろう、と慮るのであれば、なぜ平仮名で書かないのか。笑えるではないか、平仮名にしてしまっては、意味が多様に分岐してしまい、選択に困るからだ。
本書のみに試した文体か、他の文章も、このようであるかは知らないが、一定のルールが掴めないので一種のパズル的技術を使い、読まねばならなかった。閑話休題。
南京大虐殺をはじめ、天皇に関する認識などについて、心から同感する。誰でも知っていることだ。もっと、言ってもいいくらいだ。そして、それ(もっと言ってもいい)を為し遂げてくれた人が丸木位里夫妻だなあと、読みながら感じた。それは、辺見庸さんが力不足なのではありません、絵の持つ力、言葉を超えた領域まで踏み込める絵だからこそだ。
読みながら、ひしひしと迫ってきた感覚は、残虐な行いに対する爆発的な怒りと、同類としての我の内部に払拭しようとしても残る魔核のシミ、そうした我の存在に対する不滅の悲しみなどで、それらは記憶の中の『原爆の図』を重ねて眺めることで立体化していった。
敗戦の時に1歳だった著者は、その時間に存在した事実から逃れる術を持たず、現在に至っている。1歳の赤子を生むためには、父は、いつ、どこで、母とともにいたのか。それができた父の所業を、著者は思わずにはいられなかったのだろうと感じた。こんなことは、本書の中には1行もない。ないがゆえに読み取れる部分だ。
最後に、「本書を父の霊にささげ、批判を仰ぐ」とある。
これは、1937年の陰に在る、自身の生まれ年、1944年を抱き合わせた父との葛藤の書だ。
哀れむべきかな、著者の周辺、胸中、背後、あるいは天上に、神が見えぬ。祈る対象の欠落、あるいは不在は、父の霊の元にて留まるしかない。
著者=1944年宮城県生まれ。1996年まで共同通信社勤務。芥川賞他多数受賞。
内容=タイトルの数字の間に星印を挟み、カタカナでイクミナとルビを振ってある。これは増補版で河出書房から2016年3月20日に発行されており、初回は、2015年10月22日に出版社金曜日から発行されている。
本書は、2015年1月30日から7月31日まで『週刊金曜日』に連載されたもので、加筆修正を加えて増補としてある。1937とは年号であり、この年に、どこで何が行われたかを軸に、南京大虐殺、天皇の本質などをめぐり、8章に分類して自身の過去と現在を絡み合わせて吟味している。
感想=一度も読んだことのない作家。雑文にも触れたことがなかったので、新鮮だった。
しょっぱなから当惑したことがある。それは平仮名と漢字の使い分けが、著者独自のものであり、読みにくさが先に立った点だ。
熟語を平仮名で書く場合が多い。いちぶ、とある。これは一部の意味だな、と読取らねばならない。たんじゅん。じゅうぶん。なんだ、これは、と気持ちが引けてくる。だぶん。駄文か、と先を読むと、だぶんと鈍い音がして、とあり、擬音と判明するのだ。だったら徹底的に平仮名主義かというと、そうではない。漢字をつかい、ルビまで振っている。私には不要なルビだが、ルビをつけなければ読者が困るだろう、と慮るのであれば、なぜ平仮名で書かないのか。笑えるではないか、平仮名にしてしまっては、意味が多様に分岐してしまい、選択に困るからだ。
本書のみに試した文体か、他の文章も、このようであるかは知らないが、一定のルールが掴めないので一種のパズル的技術を使い、読まねばならなかった。閑話休題。
南京大虐殺をはじめ、天皇に関する認識などについて、心から同感する。誰でも知っていることだ。もっと、言ってもいいくらいだ。そして、それ(もっと言ってもいい)を為し遂げてくれた人が丸木位里夫妻だなあと、読みながら感じた。それは、辺見庸さんが力不足なのではありません、絵の持つ力、言葉を超えた領域まで踏み込める絵だからこそだ。
読みながら、ひしひしと迫ってきた感覚は、残虐な行いに対する爆発的な怒りと、同類としての我の内部に払拭しようとしても残る魔核のシミ、そうした我の存在に対する不滅の悲しみなどで、それらは記憶の中の『原爆の図』を重ねて眺めることで立体化していった。
敗戦の時に1歳だった著者は、その時間に存在した事実から逃れる術を持たず、現在に至っている。1歳の赤子を生むためには、父は、いつ、どこで、母とともにいたのか。それができた父の所業を、著者は思わずにはいられなかったのだろうと感じた。こんなことは、本書の中には1行もない。ないがゆえに読み取れる部分だ。
最後に、「本書を父の霊にささげ、批判を仰ぐ」とある。
これは、1937年の陰に在る、自身の生まれ年、1944年を抱き合わせた父との葛藤の書だ。
哀れむべきかな、著者の周辺、胸中、背後、あるいは天上に、神が見えぬ。祈る対象の欠落、あるいは不在は、父の霊の元にて留まるしかない。