明治四十年大水害実記
25-09-11-22:00-
『明治四十年大水害実記』 副題 武田千代三郎知事の追想記 武田千代三郎 著 長田組土木株式会社 平成13年 発行 88ページ サイズ=148 X 210 ISBNなし 非売品
慶応3年1867年生まれ、明治38年1906年に山梨県知事であった武田千代三郎が、明治40年に石和地方を中心に襲った大水害を追想している本。この大水害は、山梨県災害史のなかでも例を見ない大水害だった。原文は漢文体。これを現代語訳にして1冊の本にするきっかけを作ったのが、発行者の長田氏を初めとする旧制山梨高校の同級生たちだった。同級生の一人である郵便局長さんが、たまたま土地の禅寺を訪れた折りに和尚さまから見せてもらったのが、4000字ほどの漢文だった。長田組の社長になっていた同級生をはじめ、皆が集まり、県の教育委員会、郷土研究会などの方々の協力を得て、非売品として発行した。私は、1冊の書物を世に押し出したいという熱意に、心底感動した。報せたい、読んでみてくれ、の純粋な一心の結晶である。私は、この無名の書物と山梨県山中湖村にある図書館で出会った。
内容の一端を紹介しよう。石和で、1本の柿の木に96人の人々が取りついて3日間絶食のまま助けを待った、そのあいだに樹上で、ひとり出産したという。また、対岸に取り残されたまま、三日三晩飲まず食わずの人々に、水と食料が届いた事を知らせるために、障子に大きな文字で「米キタ」と墨書、後ろでたき火をして文字を浮き上がらせて、遠くから読めるようにしたという。通信手段がなかった当時の苦労と工夫が生き生きと記されている。大水襲来の数日前に、石和税務署の新築工事が完成していた。堅固な土台の強固な作りだったという。署長夫妻をはじめ、多くの人がこの建物を頼って避難した。しかし、宙を向いて流され、粉々に破壊されてしまった。一方、粗末な家々は残った。それは、水を熟知している老人たちの家で、あらかじめ壁を取り払い、床を外して洪水を受け入れていた、流れが去ったのちに修復するのだと言う。
40年43年と続けて襲われた大水害の経験から県民は、水害は山の荒廃によりもたらされる。山林の育成、保護のために、御料林の還付を、と願い出て、44年に還付された。
武田信玄は、隣国の敵を怖れることはなかったが、国内の水害を警戒し、油断をしなかったと言う。彼は堤防を築き、石を積み、竹を植えるなどしたが、人と人の結束が最も大切、と説いた。また、洪水のあと、修復するだけで終わりとせず、常に防水の技術を訓練させていた。備えについては、現代の人は、信玄に遥かに及ばない、と、武田千代三郎知事は記している。
今年2011年の台風12号では、全国で100人を超える犠牲者が出て、被害は甚大、いまも堰留湖に悩まされている。本書の4285文字をあらためて熟読してほしいと思った。
慶応3年1867年生まれ、明治38年1906年に山梨県知事であった武田千代三郎が、明治40年に石和地方を中心に襲った大水害を追想している本。この大水害は、山梨県災害史のなかでも例を見ない大水害だった。原文は漢文体。これを現代語訳にして1冊の本にするきっかけを作ったのが、発行者の長田氏を初めとする旧制山梨高校の同級生たちだった。同級生の一人である郵便局長さんが、たまたま土地の禅寺を訪れた折りに和尚さまから見せてもらったのが、4000字ほどの漢文だった。長田組の社長になっていた同級生をはじめ、皆が集まり、県の教育委員会、郷土研究会などの方々の協力を得て、非売品として発行した。私は、1冊の書物を世に押し出したいという熱意に、心底感動した。報せたい、読んでみてくれ、の純粋な一心の結晶である。私は、この無名の書物と山梨県山中湖村にある図書館で出会った。
内容の一端を紹介しよう。石和で、1本の柿の木に96人の人々が取りついて3日間絶食のまま助けを待った、そのあいだに樹上で、ひとり出産したという。また、対岸に取り残されたまま、三日三晩飲まず食わずの人々に、水と食料が届いた事を知らせるために、障子に大きな文字で「米キタ」と墨書、後ろでたき火をして文字を浮き上がらせて、遠くから読めるようにしたという。通信手段がなかった当時の苦労と工夫が生き生きと記されている。大水襲来の数日前に、石和税務署の新築工事が完成していた。堅固な土台の強固な作りだったという。署長夫妻をはじめ、多くの人がこの建物を頼って避難した。しかし、宙を向いて流され、粉々に破壊されてしまった。一方、粗末な家々は残った。それは、水を熟知している老人たちの家で、あらかじめ壁を取り払い、床を外して洪水を受け入れていた、流れが去ったのちに修復するのだと言う。
40年43年と続けて襲われた大水害の経験から県民は、水害は山の荒廃によりもたらされる。山林の育成、保護のために、御料林の還付を、と願い出て、44年に還付された。
武田信玄は、隣国の敵を怖れることはなかったが、国内の水害を警戒し、油断をしなかったと言う。彼は堤防を築き、石を積み、竹を植えるなどしたが、人と人の結束が最も大切、と説いた。また、洪水のあと、修復するだけで終わりとせず、常に防水の技術を訓練させていた。備えについては、現代の人は、信玄に遥かに及ばない、と、武田千代三郎知事は記している。
今年2011年の台風12号では、全国で100人を超える犠牲者が出て、被害は甚大、いまも堰留湖に悩まされている。本書の4285文字をあらためて熟読してほしいと思った。