ラスト・マタギ
15-03-15-08:22-
『ラスト・マタギ』副題=志田忠義・98歳の生活と意見 著者=志田忠義(しだただよし)発行=角川書店2014年 20cm 204頁¥1500 ISBN9784041015186
著者=1916年山形県生まれ。子供の頃から山に入り、15歳のときに、はじめてクマを撃つ。3度の招集の後、戦後は磐梯朝日国立公園の朝日地区の管理人や、朝日連峰の遭難救助隊、地元のブナ林を守る活動などに尽力。勲六等単光旭日章受賞。
内容=狩猟、釣り、朝日連峰の姿。招集されて中国へ。徐州周辺の戦闘の模様、復員して再び故郷の山へ。やがて遭難救助や、生まれ故郷の大井沢の環境に思いが及んでゆく98年を振り返り、折々に記した膨大な原稿を、角川の編集部が整理、編集してまとめた本。
感想=表紙が、野生猿と著者が抱き合う写真だったから、猿との思い出が主体かと思ったがサルは「はじめに」に出ただけだった。が、そのエピソードは強く印象に残り、読了後、すべてをこの猿が語っているとも感じられた。
紹介すると、小学校の校庭で子どもたちが騒いでいる、著者がみると1匹の野生猿が校舎周辺を歩いていた。椅子に腰掛けて呼んでみたら膝に乗ってきた。軽く叩いてやったら平気な顔で毛繕いをしている。他の人が手を出したら怒った。やがて林へ去った。という話だ。不思議でも何でもない、分かる話だがメッタにないことだ。マタギ猟の姿が生き生きと描かれている。若者を育てつつ、年寄りをいたわりつつ、土地の男たちが力と知恵を結集して狩りをする姿は印象深い。この先、マタギ猟が受け継がれてゆくか、それは考えるまでもなく消滅するだろう。いまはまだ、各地山中の高齢者のあいだに抱えられているが、若い世代が引き継ぐことは、たとえ望んだとしても不可能ではないか。それは、マタギ猟が共同作業であることと、銃砲所持などのハードルを越えなければならず、保険加入など、経済的にも負担が大きいからだ。それよりなにより、第一に挙げなければならないことは、自然に対する、野生動物に対する、私たちの考え方が1900年初頭の頃から一変していることだ。
著者の少年時代から招集されるまでの朝日連峰でのクマ狩りの思い出話は、いまの感覚で読んでゆくと、(どうして、そんなに殺してしまうの?)という辛さが先に立ってしまう。50頭仕留めてきた、と略歴にある。誰それはクマを何頭仕留めた、などと自慢しあう猟師たちは、その昔、カリブ族が人狩りをして頭蓋骨を飾り立てていたのと大同小異に感じられる。当時は、クマ、テン、ウサギなどの皮を売り、肉を食べて生きるしかなかった、そのことを理解しつつも、もう終わりにしてほしい、と言う気持ちが溢れてしまう。魚も同様だ。どうして食べきれないほど獲りつくしてしまったのか。『北越雪譜』にも、そっくり同じことが描かれていて、獲れるだけ獲り尽くしてゆく人たちがいたのだ。
戦後、復員して山へ戻った著者の元へ、案内を乞う人々が集まるようになる。外国から来た人に、ヤマメの釣り場を案内し、大漁となった、そのとき外国の男が、食べる分だけを取り分けて、あとは全部川に放すのを見た。志田さんの気持ちが動く、変わる。やがてブナを保護したい気持ちが溢れるまでの日々は感動を呼ぶ。最後に遭難者との関わりが記されている。山に入る人たちは、とくにこの部分を読んで欲しいと思った。
著者=1916年山形県生まれ。子供の頃から山に入り、15歳のときに、はじめてクマを撃つ。3度の招集の後、戦後は磐梯朝日国立公園の朝日地区の管理人や、朝日連峰の遭難救助隊、地元のブナ林を守る活動などに尽力。勲六等単光旭日章受賞。
内容=狩猟、釣り、朝日連峰の姿。招集されて中国へ。徐州周辺の戦闘の模様、復員して再び故郷の山へ。やがて遭難救助や、生まれ故郷の大井沢の環境に思いが及んでゆく98年を振り返り、折々に記した膨大な原稿を、角川の編集部が整理、編集してまとめた本。
感想=表紙が、野生猿と著者が抱き合う写真だったから、猿との思い出が主体かと思ったがサルは「はじめに」に出ただけだった。が、そのエピソードは強く印象に残り、読了後、すべてをこの猿が語っているとも感じられた。
紹介すると、小学校の校庭で子どもたちが騒いでいる、著者がみると1匹の野生猿が校舎周辺を歩いていた。椅子に腰掛けて呼んでみたら膝に乗ってきた。軽く叩いてやったら平気な顔で毛繕いをしている。他の人が手を出したら怒った。やがて林へ去った。という話だ。不思議でも何でもない、分かる話だがメッタにないことだ。マタギ猟の姿が生き生きと描かれている。若者を育てつつ、年寄りをいたわりつつ、土地の男たちが力と知恵を結集して狩りをする姿は印象深い。この先、マタギ猟が受け継がれてゆくか、それは考えるまでもなく消滅するだろう。いまはまだ、各地山中の高齢者のあいだに抱えられているが、若い世代が引き継ぐことは、たとえ望んだとしても不可能ではないか。それは、マタギ猟が共同作業であることと、銃砲所持などのハードルを越えなければならず、保険加入など、経済的にも負担が大きいからだ。それよりなにより、第一に挙げなければならないことは、自然に対する、野生動物に対する、私たちの考え方が1900年初頭の頃から一変していることだ。
著者の少年時代から招集されるまでの朝日連峰でのクマ狩りの思い出話は、いまの感覚で読んでゆくと、(どうして、そんなに殺してしまうの?)という辛さが先に立ってしまう。50頭仕留めてきた、と略歴にある。誰それはクマを何頭仕留めた、などと自慢しあう猟師たちは、その昔、カリブ族が人狩りをして頭蓋骨を飾り立てていたのと大同小異に感じられる。当時は、クマ、テン、ウサギなどの皮を売り、肉を食べて生きるしかなかった、そのことを理解しつつも、もう終わりにしてほしい、と言う気持ちが溢れてしまう。魚も同様だ。どうして食べきれないほど獲りつくしてしまったのか。『北越雪譜』にも、そっくり同じことが描かれていて、獲れるだけ獲り尽くしてゆく人たちがいたのだ。
戦後、復員して山へ戻った著者の元へ、案内を乞う人々が集まるようになる。外国から来た人に、ヤマメの釣り場を案内し、大漁となった、そのとき外国の男が、食べる分だけを取り分けて、あとは全部川に放すのを見た。志田さんの気持ちが動く、変わる。やがてブナを保護したい気持ちが溢れるまでの日々は感動を呼ぶ。最後に遭難者との関わりが記されている。山に入る人たちは、とくにこの部分を読んで欲しいと思った。