文房 夢類
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デモ

昨日、4月14日に、全国20ヶ所を超える場所でデモが行われた、と今朝のニュースで知った。安倍内閣を批判否定する集会。
ネットの動画を拡大して見つめた。青葉若葉に囲まれる背景は国会議事堂前である。主催者の発表によると、この場所だけで述べ5万人だという。
マイクを握る若者の発言が聞こえ、メディアのマイクに応える人の言葉もはっきりと伝わってきた。
この、臨場感溢れる画面が、なんとしたことだろう、みるみるモノクロに落ちてゆき、私は息を呑む。

モノクロ画面は、こげ茶色と灰色の大集団に変わり、かけ声が湧き出した。広場の地面は見えない。デモの集団で隙間もない。デモには指導者がいると見えて、そのかけ声に合わせて一斉に声をあげながら西口広場をうねり巡る。
そうだ、ここは国会議事堂前ではない、東京・新宿の西口広場だ。大ガードが見え、手前の青梅街道に都電が見えた。新宿〜荻窪間を走る都電だ。
私は、この路面電車に乗って家へ帰る途中で、中学生になってまだ一月余りの5月のことだった。
日本は「大日本帝国」から「日本」になって、というか戦争に負けて丸裸にされて、軍国主義から民主主義という、アメリカからもらったモノに変えられて、デモという新体験を試みていた。
当時の私は、プラカードという名前を知らなかったが、棒をつけた白い紙には吉田茂(今の麻生太郎の祖父)首相の似顔絵が墨で描かれていた。打倒!の文字だけの板も担がれて進む。
吉田茂とはワンマンと呼ばれた総理大臣で、神奈川の大磯に住んでおり、自宅から国会議事堂までの道路を優先的に整備し、弾丸道路と呼ばれる立派な道路を国の車で往復しているということを新聞で読んで知っていた。
うねり進む人々は男たちだった。彼らは統制がとれて隊列を作っていた。いったい私は、どこからこの光景を見つめていたのだろう。
赤坂見附の方角から終点の新宿まで都電できて、乗り換えるために大ガードまで歩いてきたのだが、70年後の今となっては、まるで宙に浮いて俯瞰していたかのような記憶である。
このデモの後、しばらくして行われた大掛かりなデモで、参加者の樺美智子さんが死んだ。驚いた、女性が参加していたことに心を打たれた。
この時の記憶では男性だけのデモで、皆灰色か茶色だった。大きな声で叫んでいたが、それはリーダーのかけ声に合わせた統制のとれた叫びだった。誰も彼もが無表情で、まっすぐ前か、下を向いていた。
当時の新宿西口は、差掛け小屋の闇店が並び、樹木はなかったから一面のモノクロ世界だったのだが、にもかかわらず熱気というか、憤懣というのか、不穏な圧力がこもる場所だった。
ただでさえ危ない空氣の西口で、この夕方、さらなる猛烈な熱気、気持ちの高揚を浴びた私は動けなくなってしまった。
1945年に戦争に負けた日本が民主主義の国に変わり2年目、封建的という言葉が石飛礫のように「古い人たち」に投げつけられていた時代だ、日本は新しくなる、という感激と高揚が中学一年生にまで及んでいた。
どれだけ見つめていたのだろう、帰宅した時は日が暮れており、家には怒り狂った父親が待ち構えており、脇目も振らずに下校しなかった私はさんざん叱られて泣き続けたのだった。

「戦争はいや」「安倍やめろ」「ウソをつくな」「なめんな」「恥を知れ」「昭恵出てこい」「安倍を倒せ」「集団自衛権法制化阻止」「改ざん内閣」「アベ政治を許さない」「さよなら晋三」「まともな政治を」「責任取れ」
まああ。「Don’t tell lies」「Your silence will not protect you」「REVEAL IT ALL」など英文もある。
これが、いま今日のデモの姿だ。
一番の衝撃は、一人ひとりが自分の意思で集まってきているということだ。年齢も様々。子供連れもいるし高齢者もいる。
最前列の横棒を握り、列を作ってうねる組織の人々ではなかった。みんなバラバラに、ワイワイと集まってきているのだった。
掲げるメッセージは大きさも色も、表現も多種多様、どれも自分たちの内側から湧き出してきた言葉に違いないと感じた。
胸がいっぱいになった。70年間は無駄に過ぎてこなかった。
「誠」という魂、「誠実」という土台が欠落している安倍晋三と以下同類の政治家たちは足踏みして進歩しないが、国民は一歩一歩と進んできたんだよ、この感激は感激だ。


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