文房 夢類
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本能と感情VS理性

第3次安倍内閣ともいうべき形が現れた。感情を土台に据えている集団であり、率いる頭たちは安倍晋三にしても麻生太郎にしても、自分らと一般国民の間には、越えることを想定しない濠があることを前提としている。
彼らにとっての野党とは、元来主導権をとるはずのない集団であり、とることを許してはならない集団である。日本国の民主主義は見かけの上着と心得、彼らの肉体も精神も独裁者だ。これは奈良時代からこっち、変わらない。
勉強嫌いで本は読まない、といわれているこの二人は、元来が机上の勉強は必要ないと決めつけている。なぜなら代々継承してきている大量の知恵と感覚を家庭環境の中で吸収してきている故だ。それは民衆取扱書という取説だ。
国民という名の下に、ひとまとめにした群衆の、どこに砂糖を置けば集まってくるか、どこに水を流せば逃げ惑うかが、はっきり見えている人たちだ。
天平の昔からの体質を根強く残す人々、強いものに従うことに慣れている、静かでおとなしい人々、立ち上がってモノを言うと損をすると思い込んでいる人々、勤勉で我慢強い人々。最大の欠点は知ろうとする力を持たないことだ。
こんな我々、国民とか一般人とか呼ばれる我々はいま、令和という時の枠に収まっている。相変わらず「時」までも支配されて、明治、大正、昭和、平成と、時代の箱に囲われてきたことも、当たり前だと感じている、まるで四季のように。

アメリカのトランプ大統領は、泡沫候補と目された状態から、鯉の滝登りのように躍り出て大統領となり、破天荒な言動で民主党の面々を激怒させている。しかしこれは民主党VS共和党の対決には、ならないのではないか。
民主党は理性的な思考と判断で民主主義国家を運営しようと努力している。一方、共和党と呼ぶよりもトランプファミリーは、民衆に対して、人間の本能と感情に触れようとしているように見える。
これでは戦うフィールドが異質だからくいちがう。お互いが、敵のいないところに拳を振り上げている。この状態で民主主義方針のもとに選挙をしても、予想と結果は異なってくるのではないだろうか。なぜなら本能による決定には言葉は必要ないからだ。
アンケートなどに、どれほど言葉で反応しようとも、本能に働きかけられて本能で反応する場合には、言葉を飛び越えて本能的決定がなされるのではないか。よって結果はデータには現れないだろう。
あれ? これって日記じゃなくて壺猫の言葉かな?

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