文房 夢類
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中曽根さんが亡くなられた

戦後の総理大臣の一人、中曽根康弘さんが101歳で亡くなられた。何の病で、とは語らない報道。報道だけではない、すべての人々が同じ思いだろう。
私が中曽根さんの名前を覚えたのはNHKラジオ番組「街頭録音」の時間でだった。中学生の頃に聞いていたが、長寿番組だったから高校生の頃も聞いていたかもしれない。
東京の街かどに立つ政治家と、街の普通の人々が議論を戦わせる番組だった。その政治家側の人の中に、度々現れ、ひときわ明快で、順序立てた論理と、はっきりとした大声の男性がいた。
この人が現れると一所懸命に耳を傾け、そのうちに名前を覚えたのだ。中曽根康弘という名前だった。多分、30歳前後の頃だったろう。
一生、政の世界で力を尽くされた方だ。拍手で送ろう。拍手に混じり鞭音も聞こえるが、これこそ、ご本人が言うところの歴史の法廷で被告席に立ってもらうということでしょうか。
追記 12月8日に書き足そうとしている。15歳前後だった「街頭録音」時代を振り返っている。当時の中曽根さんは、街頭録音の場で弁舌力を鍛えていたに違いない。彼の爽やかで明快な、淀みのない発言は、まさしく論戦だった。
論法の手順が、私の父親のものと同じだった、と今は言葉としてつかむことができる。それは当時の知識人が持つ、論敵を論じ倒すという目的に向かって進める意識だ。議論を始めたら、自分が勝たなければ気が済まないのである。
たとえばカラスがワンと鳴くと論じ始めたならば、事実はどうであれ相手を論じ倒す。その場で相手が反駁できず、屈服することが勝利の印となる。
何年か経ち、今度は自分の立場がカラスはカーと鳴くという論陣に与していたならば、ここでも晴れやかに論じ倒すのである。遊びならともかく、実生活でこれをやられたらたまらない。胸中の反駁心は消えるどころか増す一方である。
国のため、会社のため、家族のためだと心底信じ切っている善意の指導者がこれを用いたときの足跡と、周辺に及ぼした影響を辿ってみようではないか。雪隠詰めにあった相手は反駁不能なのである。
アフガニスタンで弱きもの、小さき人々のために力を尽くした中村哲さん、身体のすべて、時間の全てを投入され、コツコツと水と緑を手渡し続けてきた中村哲さんがテロの銃弾に倒れた。
言葉に頼らぬ行動の力に目がくらむ思いがする。心から中村哲医師の死を悼む。彼は死んだのか? 死んではいない。12月4日以後も、今までにも増す輝きを放ちながら皆の心に生き続ける。
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