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Jan 2011

よい煙わるい煙を科学する

『よい煙わるい煙を科学する 人と煙の長いつきあい』著者 谷田貝光克 (やたがい みつよし)発行 中経出版 2002年978-4806-116950¥1300198x138
著者は1943年生まれ、東京大学大学院農学生命科学研究所農学国際専攻教授。長年の研究成果をふまえて、煙の正体をガス状物質も含めて解説。
専門家が、素人向けに書いてくれた専門書は、簡潔で要点をつかみ、わかりやすい。すらすらと読み進むことができるのは、上質の文章であるゆえである。
なぜ、文学者ではない人が、読みやすく、頭に入りやすい、上質の文章を書けるかというと、それは語る内容を熟知している故である。
私が上質の文章と認める文というのは、なにを伝えようとしているのか、はっきり分かることが第一だ。
で、結局何が言いたいの? というような文章を書いたり、話したりする人は、自分でも分かっていないか、あるいはごまかそうとしているにちがいない。
ところで、本の題名を見て読もう、と思った動機は、煙って、すべて悪者なのかしら、少し健康によい煙もあるんじゃないの? という疑問を持っていたためだった。
読後、納得したことは、肺によい煙はない、ということだった。さらに驚いたことは、タバコを吸う人よりも、周辺にいて、タバコの火の先から出る煙を直接吸ってしまう場合の方が何倍も被害が大きいということだった。これはひどい話です。
ただ、煙が良い効果をもたらす場合はある。それはよい香りが気持ちを和らげたり、寛ぎをもたらしたりする場合だ。お線香の煙も、気持ちを鎮めるスギの葉などが配合されていて、理にかなっているという。悲しみ苦しんで仏壇に向かい、お線香に火をつけると、拝む人の心が煙によって静まるのだなあ、と私は納得した。
歴史の方面からお線香の効用を考えると、このような解釈は出てこない。古代人は、煙が天に向かって立ちのぼり、天空にまします神々へ祈りを届けてくれるのだと信じていた、となる。また、足利尊氏は大会議を開くとき、衆議一決、それも尊氏の思う壺の一決を目論むとき、香を焚いたという記録がある。結果を出したいのだ、なんとしてでも。そういう心境になったときに唐天竺の秘薬を焚きたいと思ったのではないか。正倉院に収蔵されている沈香を、信長が削り取って用いたことは有名な話だ。
ここから先は私の空想だが、伽羅木が倒れて土中に長く埋まり、樹脂部分が固い塊となって発掘される。これが黄熟香、沈香と呼ばれて珍重されたのだが、はたしていにしえの指導者、権力者が欲し、用いたのは、この香木だけだったろうか。そのほかに大麻や、芥子の実から抽出する類の禁断の煙があったのではなかろうか。煙の流れるさきを追い見つめるのは愉しい。

独身者の住まい

『独身者の住まい』 著者 竹山 聖(たけやま せい)発行 廣済堂出版 2002年 ISBN4-331-50910-9 C0052 ¥1500E 128x187 P304

著者は1954年大阪生まれ建築家。作品は「Blue screen house 自邸」「周東町パストラルホール」「山本寛斎本社ビル」など 1992年から京都大学助教授
およそ10年前に書かれた本。最近注目されている「お一人様」向けの内容ではない。独身者の定義からして、著者の思う独身者は、一種独特な像である。
目次を拾ってみよう。1 歴史がかわる 2 精神的独身者の時代 3 在庫としての独身者 4 アンチファミリー 5 ひとり住まいのメリット
6 ニセモノの街 7 データが示す未来 8 自由の領分 9設計をとおして学んだこと 10 住まいは整地である。 以上のあと、巻末に独身者の住まいの十か条や、図版、京都大学の竹山スタジオなどがある。
のびのびと書いたエッセイ集。映画の話になり、世相の話題に飛び、しかし常に建築に舞い戻る。基盤が建築に置かれているので、安心してつきあい、ほかの話題につき合っていてもやっぱり著者とともに考えを深めるのは、住まいについてである。それも独身者の住まい限定。
連れ合いに先立たれ、息子、娘は家を出て暮らし、ひとりぼっちになってしまったひとり暮らしではありません。能動的独身者が、ここで想定されている対象であって、心身ともに独立した人間、しかも孤立とは無縁な人間の住まいなので、むきだしになるのは、そこに住む人の個性だろう。
いま、私の家の周辺で起きている現象は、空き部屋になった子供部屋が物置部屋と化し、ほとんど風も通さない暗い部屋となっている家々。ふだん使っているのは、お勝手とリビング、慣れた寝る場所。トイレと風呂場。これは、どうみても楽しくないなあ。もったいないし。
高速回転で変化する現在の状況の中にいて、このようなタイプの独身者は、多くはないがかならず、つぎつぎに生まれるだろう。核家族が、日本のごく一般的な姿なんだ、ととらえて信じているのが、大手の建築会社であって、それはいまも売れ続けているけれど、終わりが見えてきているんじゃないか。この本は、10年も前に、このことを指摘している。自分でしかあり得ない自分が、自分らしく自由にいられる場をつくろう。これは言うのは簡単だけれど、実は簡単にできることではなくて、まずは独立した精神の人間あってこその論議でしょう。

狛犬事典

『狛犬事典』 著者 上杉千郷(うえすぎ ちさと) 発行 戒光祥出版 2001年 ISBN4-900901-20-2 CO571 ¥5000E P368   148 ×210

著者は、大正12年生まれ、岐阜県の神社社家19代目。現在、学校法人皇学館理事長。狛犬の研究・収集家。岐阜県下呂温泉に狛犬博物館などを作った。
狛犬を撮影したことから興味がわいて、図書館で借りた。著者は、各地の狛犬を年月をかけて訪ねている。収集は、探し求めるよりも集まってきた狛犬が多いそうだ。
シルクロードを通って日本にやってきたライオンが獅子となる。獅子は唐獅子から、狛犬へ変貌して行く。沖縄のシーサーも、獅子である。順を追って読むのも、拾い読みも楽しい。ときどきコラムのページがあって面白い。
コラムから少し紹介を。
靖国神社の参道に、中国移住者が奉納した獅子像がある。これは両方とも口を開けている。阿吽になっていないので、空いた口が塞がらない。と冗談を言っている。
別のコラムでは、「カッパ狛犬」が出ている。これは遠野市の常堅寺にいる狛犬。頭のてっぺんが皿になっていて水がたまっている。近くにあるカッパ渕に、実際、カッパがいて、お寺が火事になったとき、カッパたちが渕から飛び出してきて、皿の水を飛ばして火を消したそうだ。
事典だけれど、面白い。狛犬と獅子は平安時代には区別していたが、今は獅子なのか、イヌなのかさえも、定かではない。実際、私もシーサーはS音からしても獅子だろうと思っていたが、狛犬は、両方ともイヌだと思い込んでいた。
とりあえず、カッパ狛犬に会いにいきましょう。

ガウディの伝言

『ガウディの伝言』  著者 外尾悦郎 発行 光文社 光文社新書 2006年  ISBN 4-334-03364-4 CO271 ¥950E

 外尾悦郎(そとおえつろう)1953年生。1978年以来、スペイン、バルセロナ市のサグラダ・ファミリア贖罪聖堂の彫刻を担当。2000年に15体の天使像を完成させた。これによって、サグラダ・ファミリア「生誕の門」が完成し、2005年に世界文化遺産に登録された。
 この本は、石の彫刻をしたい、という発心から、なぜかファミリアに行き着き、いまもここにいて石に埋まっている外尾氏が、落ち着いた美しい日本語で伝えてくれるガウディ、ファミリア、その仲間たちの話である。前に読んだ『ガウディ その建築への招待』の写真と合わせ読むことで、さらに興味は増し、理解が深まった。
観光客の行列に加わり、ファミリアの階段を踏み上がっていた何年か前、実は、私は何も分からなかった。屑タイルをかき集めてベタベタと貼付けた異様な構造物。ありえないような曲線で形作られているバカでかいモノ。こんなクニャクニャした形で、よくもまあ倒れないもんだわ。未完成ですってよ、という、無知、貧弱きわまりない末端観光客だった。それなのに、度々思い出してしまう「あの建物」。なぜか気になって仕方がない、ひっかかる気持ちが、この2冊を開かせた。そして、心底感動しています。
 昨年から考えてきたことのひとつ、神がすべての上にまします、というキリスト教、イスラム教、ユダヤ教(この親類たち)の根本を理解しないことには始まらないのだ、ということが首肯され、納得がいった。外尾氏も入信されている。それでこそ、なのだった。そしてクニャクニャは、実は直線なのだった。

 生涯独身だったガウディは、晩年ファミリアに住み込んで制作に没頭していた。74歳になろうとするある日、40年来歩き慣れた道路を横断しようとして、路面電車にはねられて重体となり亡くなった。駆け寄った人々が病院へ運ぼうとしたが、あまりにも貧しい身なりをしていたために、4台ものタクシーが乗車拒否をしたと伝えられている。弟子たちが探しまわり、身元不詳のままサンタ・クルス病院の大部屋にガウディを見つけた時は深夜になっていた。2日後の葬儀では大群衆が集まったという。


ところどころに光る言葉。
 ものをつくる人間をダメにする確実な方法は、全体を考えさせず、細かい作業をひたすら義務としてやらせることです。そうするともう、現場での新しい発想が生まれてこなくなるだけでなく、いかに手を抜くかということばかり考える人が現れ……

 サグラダ・ファミリアのような場所で彫刻家として仕事をしていると、どうしても、人間の幸せとは何だろうということを考えざるを得ないんですが、それは一つには、どれだけ何かを愛し、その自分でないもののために生きられているかということではないかと思います。自分というのは、他があって初めて存在するものです。その他を利用し、自分の名誉や財産のためだけに生きようとしている人は、どこまで行っても満たされず、精神的に痩せ細っていくものでしょう。そうではなく、他のために生き、それによって自分も満たされるということ。そういう関係のなかにこそ、人間が求めるべき幸せがあるような気がします。



武術「奥義」の科学

『武術「奥義」の科学』 最強の身体技法  著者 吉富康郎 講談社 発行 新書判 ISBN978-4-06-257688-8 c0240 ¥860E

著者は中部大学工学部教授。1944年生。力学を人体に応用して、格闘技などの研究をするバイオメカニクスの専門家。テレビ出演も多い。
二言目には、究極の奥義を繰り出させて、主人公を活躍させるストーリーを書く人がいて、ついに私は、その方を「究極の奥義氏」と呼ぶことになった。それで、ひとつ奥義の奥義を覗いてみようという気になって読んだ。
ところが、トルクがどうとか、矢印、記号などがふんだんに使われている図もあり、すべてを理解するには、私の能力は不足なのだった。致し方なく、つまみ食い。
わかったことは、薬指という指が、なんと重要なものであるか、ということだった。
実は、私はピアノを弾くときに薬指の力が弱くて難渋していた。5本の指の力は、それぞれに違いがあって、薬指が落ちこぼれ指だというのが私の結論だった。さらに、怪我をしたとき5本の指は、それぞれに違う反応を示し、薬指について言えば、この指が最も痛みを強く感じるのだった。このことは、私はよく怪我を、大きな怪我をするので実感している。
さて、ところが、本書でわかったことは、なんと、この落ちこぼれ指が大切な働きをしているというではないか。
ほんの少し、ご紹介しますと、
「刀(の柄)を握るとき、力を入れるのは薬指と小指の2本で、とりわけ薬指に力をかける。親指と人差し指は、軽く添える程度で中指は軽く握る。この刀の握りかたは「手の内」といい、日本刀の操作の基本となる」。
そして、薬指はあまり意識しないが、ものを握る、たとえば中華鍋を扱うとき、もっとも大きな力を出しているのは、この薬指であり、荷物を手に提げるときも、薬指を中心に第3〜5指だけで十分だそうです。

ガウディ  その建築への招待

『ガウディ その建築への招待』  本文著者 JUAN-EDUARDO CIRLOT 写真 PERE VIVAS / RICARD PLA  発行 TRIANGLE POSTALS 2002年 192ページ 140mm ×140mm

シルロット(1916〜73)は、芸術評論家、詩人。本書には、ANTONI GAUDIの全作品が出ている。
サグラダ・ファミリア贖罪寺院(Temple Expiatori de la Sagrada Familia)は、ガウディが1914年から亡くなる直前まで没頭していた未完成の大殿堂。彼は1926年、74歳のときに路面電車にはねられて、この怪我がもとで亡くなった。初期の作品から順に眺める全作品から、最後の作品、そして電車にはねられたことも含めて、すべてが彼であると思った。この本を手に、バルセロナに行きたい。

貧困の放置は罪なのか

『貧困の放置は罪なのか』 副題 グローバルな正義とコスモポリタニズム  著者 伊藤恭彦  ISBN978-4-409-24089-2 C1036 ¥ 3200E 2010.5 人文書院 発行

タイトルを見たとき、この本の主張は、放置は罪ではない、と言うものだろう、と思って開いた。が、正反対であった。著者の主張は、貧困を撲滅するための富裕国の責任を明らかにして、誰もが貧困から解放され、人間的な生活を送れる地球を実現するようなグローバルな枠組みを構想する点にある。
対象と目した読者は、どの辺にあるのか。研究成果を1冊にまとめて発表したような印象を受けた。私は、貧困の人、すべてを援助するやり方に対し、自助努力を最大限にしてからにするのが望ましいと考えている。
映像で見る限りの情報がほとんどではあるが、 地球上のどの国であれ、救助される側に対して、私はもどかしさ、いらだち、不満を感じる。惨めったらしくうずくまる前に、することがあろうが! と思ってしまうのだ。これは、私が戦争のときに東京で生活していた記憶から、どうしても湧き出る思いである。
沖縄では、沖縄の民間人を含めた数多く、いや数えきれないほどの死体を、戦勝国はブルドーザーで処理したのだ。それでも、沖縄の人々は、涙顔でうずくまることはなかった。かわりに、今日現在まで、下火になることのない怒りが噴出しているのだ。

古代蝦夷を考える

『古代蝦夷を考える』   2011.01.16

著者 高橋富雄   吉川弘文館 発行  歴史文化セレクション  1991年発行の復刊  ISBN978-4-642-06364-7 C1321 ¥2300E
蝦夷とは? 呼び方はエゾ、エミシ、エビスのどれが妥当か。著者は古代東北史の第一人者。古代蝦夷を勉強する基礎となる本。 
吉川弘文館が刊行する図書を、私は信頼している。
4世紀、5世紀以来の東北地方で、地名、名前の呼び方が変遷して行くのですが、これを辿ることによって、渡来人がどのような地位にいたか、などが浮かび上がってくる点に注目して読んだ。
買いたい、手元に置きたい、と誘われる心地になる反面、本が増えるのが困る、の気持ちもあって、図書館で、いつでも借りられるから大丈夫、というところに落ち着きました。

 
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