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壺猫

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Oct 2014

紀行について

吉川弘文館が発行している「本郷」11月・114号に芭蕉の「奥の細道」についての小文が載っている。これは、「人をあるく」シリーズ『松尾芭蕉と奥の細道』の著者、佐藤勝明氏が書いたものだ。「本郷」では、著者が自著にちなんだ話題のエッセイを書くことが多く、これが実に興味深い。佐藤氏は芭蕉が旅した奥の細道を何回も、微に入り細を穿つように辿りなぞり、考察していられる。バッタのように飛び飛びにほっつき歩き、抜けたところは抜かしたままの私とは雲泥の差である。それはともかく、芭蕉という人を、まだ、今ひとつ掴んでいないのだけれども、つまり正面から挨拶をする芭蕉さまの顔はわかるが、後ろ姿が、まだ見えていない、といったところだろうか。「奥の細道」は、一筋縄ではいかない、仕掛け、企みのある作品だと感じている。多くの芭蕉ファンがなぞり歩き、ここで詠んだのだ、と感じ入る。そういう楽しみをふんだんに提供している木立の陰に、深い闇をさりげなく置いている。
佐藤勝明氏が、このように書いていられる。「”細道”には文芸的な創作の部分が多く、芭蕉自身の旅を材料にはしていても、それとは別の物語的な作品になっていると見て間違いない」そうだろう、芭蕉は、そういうことをしているのだ。西行を愛し、「源氏物語」に一目置いていた芭蕉翁。いま書こうとしているカリブの紀行が念頭にある。

今年のノーベル賞

ブログが停滞していたので、少し遅れた話題。
パキスタンの少女、マララ・ユスフザイさんは17歳。最年少のノーベル平和賞受賞者。2年前に頭を撃たれて重傷を負ったとき、再起できるとは誰もが思えなかった。復活を果たし、貧困国の子ども教育を支援している。今回のマララさんの受賞は、話題の人、注目の人を選んだと受け取ることも出来よう。ノーベル賞に限らず、賞というものは、これまでに成し遂げた業績を称える意味があるから、若年での受賞は時期尚早と感じる向きもあるだろう。しかし、今回の平和賞は、従来の常識の範疇に入らない、新しい価値観で選ばれたのではないか、と私は受け取った。受け取りたい、と言うほうが正確かもしれない。
なぜかというとマララさんは、この賞を受けたことを、この先の長い活動のために生かすだろう、と確信した故である。受賞して立派だ、さあ記念写真を撮りましょう、ではない。この賞を力の一つに加えて、テコにもして、子どもたちを守り育てるための活動を続けるのではないだろうか。将来に生かされる、生きた賞だ、と感じた。同じ今年受賞した3人の学者によるLEDの光も、マララさんの行く手を明るくするはずだ。
私の勝手な想像、夢だけれど、葉書ほどの大きさの太陽光電池で、LEDの光ならば充分夜を明るくすることが出来るのだそうだ。これは、猛烈凄いことだ、僻地の、電線が通らないところでも電灯が点るのだ。私の想像は、こうだ。電子リーダーというものがある。充電するのもわずかな電力である。これと太陽電池とLEDランプを世界の端々にまで届ける。電子リーダーには、約4000冊の本が入る。これを配ったら子どもたちの勉強に役立つだろう。大人だって、いままで学びたくても、その環境がなかった人たちが、願いを叶えることが出来るし、楽しみも増える。ことしのノーベル賞で、私は地球全体への夢を広げた。

同じ道なのに

先月の「道の不思議」の謎を解こうとして、ふたたび歩いた。この道は猛スピードで抜けて行く車が多い、いわゆる抜け道であって、実は私も抜け道として利用していたのだ。もともとは、地元の人が歩くための道だし、畑も作れない斜面を曲がりくねり、上下しながら隣の村落へ通じる、そういう農道を舗装したものだ。私は、車を運転している気持ちになって歩いてみた。運転しているつもりの私は、道路の曲がり具合、登りか下りか、そして角々に立つミラーに注意を向ける。ミラーは大切だ、これがないと対向車が見えないのだ。この道路には速度制限の標識や、道路標識などは一切ないから、問題はミラーだった。私はオレンジ色のポールについているミラーと並んで立ってみた。そこには新しい景色、はじめてみる風景が広がっていた。ススキ、ヤブカラシ、クズ、エノコログサの斜面の下に屋根が見えた。一般の家ではなさそう、お寺らしい。行ってみようかな。どこから降りるのかしら。何本もあるミラーごとに、私は新しい風景に出会った。対向車を知らせる役目のミラーは、こんな風景を映していたのだった。車に乗せて貰っているときは、ゆとりをもって眺められるが、運転しているときは、脇見は禁物、必要なところを見定めながら走る。ミラーに車影があるか、ないか。それだけを確認していたから、ミラーの立つ場所に限って、周囲の景色を見ていなかったのだ。

朝日新聞のために

朝日新聞が、社長が謝罪して、編集統括者を解任、自身も時期を選んで辞めると言った。フクイチの時の命令云々の問題を主軸に、つけたしのように慰安婦問題を付け加えた。朝日新聞は、慰安婦問題では、ほとんど反省をしていない。が、世界中に行き渡らせた、誤った印象は、一朝一夕に消すことは出来ないのだ。朝日新聞の罪は、計り知れない深さと重さを持っていて、修復は苦しく、遠いだろう。
この問題は、地球上に男と女が出現した、大昔から絶えることなく続いてきた事柄なのだから、世界中が集まって解決へと進む事が必要だと思う。というのは完全に理想論ですが、そう言うしかないほど暗澹とした問題ではないだろうか。私は、朝日新聞の社長は、事態の深刻さを見くびっている、と感じている。また、他紙も、他のメディアも、見物人と思ってくれては困るので、自分の事として反省しなければいけないのではないか。
いまどき、マスゴミの言うことを信じるバカがいるか? という大衆の常識を作ったのは、新聞、TVその他のメディア自身ではないか。各社には、それぞれ社風があり、朝日新聞社のこれが汚染されきっているのだから、社長を取り替えても空気は残る。完全に解体することしか、希望は芽生えない。勇気を持って、いったんバラシて、出直して欲しい。良いところがたくさんある新聞社なのだから。
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