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壺猫

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Oct 2013

自分のことを他人が決める

私のかかりつけのお医者さんは、若先生だ。長い間、彼の父に世話になっていたが、いまは二代目、若先生の時代になっている。若くはない、すでに還暦を過ぎた若先生である。あとに患者がいない日がある。そんなときは無駄話ができる。釣りの話、魚拓が飾ってあるので釣話はたくさんした。雑談も品切れになってきて、一つ質問した。それは、持ち歩いている健康保険証と一緒に、自分の希望を書いて持ち歩く,何かあったときに,保険証と一緒であれば、医療関係者に見て貰えるだろう、如何か、というものだ。何を書いとくの? と先生。口から自分で食べられなくなったら、無理して補給しないでくれ。脳の発作でひっくり返ったら,無理して蘇生させないで、放っておいてくれ。と書きます、と私。そりゃあ無理だよ、と先生。だって、自分の事ですもの,自分が好きなようにしたいから、と私。わかるけど、誰だって麻痺して生きるのイヤだよ、でも無理だよ、と先生。自分の事は自分で決めたい、当たり前ですよね。それも生死に関わる大事なことは,自分で決めたい。と私もしつこい。ついに先生は言った、医者というものは、非常、救急時には、反射的に助けようと動いてしまうものなんだ。書きつけ見ている暇はない。できる限りの処置を進めてしまうものなんだ。

依存ということ

依存ということについても考えることがあります。たとえば、車を運転している。後ろから煽ってくる車がいる。少し早く走ると、もっと走れと迫る。この場合、追ってくる車の方が依存している。見かけは、おっかなそうで、強そうで、追われる側は弱い立場と見えるけれど反対です。ハラスメントという言葉がさかんに使われて、なんとかハラスメント、なになにハラ、と言う具合に濫用されているけれど、これも車の動きと似ていて、強そうで、正しく見えて、立派な感じの責める側が、実は相手に依存しているんだと思う。つまり、相手の変化が、自分にとって必要なのであり、自分が変化することはしないし、できない。車でも、ほんとうに早く走りたいのであれば、前車に要求してその尻について走るよりも、追い抜いて行けば済むことです。いかなる理由付けをしようとも、道徳や倫理をふりかざそうとも、相手に変化を求める一方、自分はじっとして動かない場合、依存症を疑わなければなりません。とくに、正義、道徳を振りかざされると、それを主張している人間を見なくなり、正義、道徳の内容に意識が集中してしまう。すると、まことにもっともだ、と考えるほかはなく、否定するどころか従おうと努力する。しかし、これは蟻地獄のようなもので、脱出はむずかしい、破滅への道です。いじめの現象も、そのなかのあるケースについては、こうした依存する側がいじめているのだと思います。依存する性質は、いわば蔓草のようなもので、他者に絡んでいないと生きていられない、他者を必要とする種類ですから、早い内に見分けて遠ざかることが肝要です。
しかし。国民は、その国から容易なことには脱出できません。結論として置きたいことは、政治家という人種は、依存症だ、ということです。

DNAというけれど

論理的な思考を進める能力がないというか、そのための材料の持ち合わせがないので、単なる妄想というしかないのだが、人間について思うことがある。樹上生活だったヒトの祖先が地に降り立った。これだけの推測でも、ある学者は、勇気ある種が地に立った、と考え、ある学者は、弱い集団が追われて、やむなく地におりた、とし、別の学者は気候変動で樹木が枯れてやむなく地上生活を強いられた、とする。要するに確定していないのだ。ここに隙間があり、私の妄想が入り込めるというわけです。
犬と猫の祖先は同じひとつの動物だったという。枝分かれして犬と猫に進んでいった。ヒトも、枝分かれしたのではなかろうか。体形のことではなく、性質の枝分かれが生じたのではないか、というのが私の推論です。群れになって生活してゆく犬的種と、単独生活を好む猫的種に分かれた、といえないだろうか。多くの人は群れることを好み、群れの中で生きる事に抵抗がない。安心もする。放れ駒、一匹狼といわれるように単独で動く人は、群れることが下手だし苦痛なのだろう。一人でいて落ち着くし、寂しいわけではない。これは教育でも環境でもなく、持って生まれた、それこそDNAのようなものではないか。これを、一斉に教育して、同じようにさせようとしても、無理なんだと考えます。
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