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壺猫

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Oct 2011

路上の犠牲者

先日のこと、高速道路を走っていて、サービスエリアに入ろうとして「P」のサインから左へ上がり徐行した。その先で普通車と大型車が分かれるあたりでタヌキが轢かれて死んでいた。どうして轢くか、と私は悲しくてたまらない。徐行しなければならない地点、目の前に突然現れても、並のブレーキで防げるはずなのに。この場所で、止まれなかった、は言えない。言い訳にもならない。
もうひとつ。一般道路の車道の真ん中でカラスが轢かれて死んでいるのを見た。このときは歩道を歩いていたので、次の車に轢かれないよう、傍らの街路樹の根元に置いた。上の電線にはたくさんカラスがいて、仲間の事故に大騒ぎをして鳴いていた。たいへんだ、たいへんだ、と言っているように私には聞こえた。カラスが車道で轢かれるのは、車から落ちた食べ物を目当てに降りる故である。車が近づくと飛び立つのだが、間に合わずに轢かれてしまうことが、たまに起きる。間に合わずに、だろうか。目の前に生き物を見たら、すこし速度を緩めれば飛び立てるのだ。ブレーキを踏むまでもないほどの気遣いで済むのに。
タヌキ、カラス、もっとも多く犠牲になるのがネコである。横断中のネコをみかけると、「ひき殺してやれ!」とアクセルを踏む人がいるのだ、と友人から聞いた。背筋が寒くなる。ふざけて「それーっ、轢いてしまうぞ!」と言いながら、実は目の前を横切るネコが渡り切るのを見届ける人は、いくらでもいるものだ。こういう人たちは、ほら、怖かったでしょう? これからは気をつけるのよ、と思っている。でも、本気で生き物にぶつけるなんて。現実に自分の自動車の車輪で、生き物を、ネコをタヌキを、カラスをひき殺して走り去るという神経は、私は恐ろしいと思う。
話が横にそれてしまうが、私が轢かれたカラスを車道から街路樹の根元に運んだ時のことだが、すっかりカラスに誤解されてしまい、ひどい目に遭った。私を加害者と見て取ったカラスたちは、怒りに燃えて私を襲ってきたのだ。違いますって。あたしじゃないって! 説明しても、叫んでも彼らはカンカンである。しかたなく近くのお店に飛び込んだ。常日頃カラスと仲良しの私だが、このときほど困ったことはなかった。

ものさし鳥

ものさし鳥という鳥がいる。3羽いる。スズメ、ハト、カラス。野鳥観察の本に出ていた。はじめて見かけたきれいな小鳥。名前を知りたいな。野鳥を観察する人たちは、実によく名前を知っている。双眼鏡を胸にさげてあるく野鳥博士に、なんて名前ですか? と訊ねると喜んで教えてくださる。そのときに、色、声とともに大事なのが大きさ。その鳥はスズメくらいの大きさでしたか、ハトと同じくらいでしたか、などと訊ねられる。声は聞かなかった、胸が白かったけど、あとはわからなかった、などとあやふやなものだが、この問いには、自信を持って答えられるのが普通の人たちである。ハトです! ここから丁寧な観察がスタートする。
ものさし鳥を知ってから、そういえば私も、自分用のものさし鳥を持って生きてきたわけだ、と思い至った。それはスズメやハトと同じくらいに、ありきたりのもの。たとえば「女」。だれかの価値観を知るときに、女というものさしを当ててみるとわかる部分がある。女のくせに、それでも女か、などと言われると、一発でその人の地金が見えてくる。女性でも、女のくせに、という人は結構いるものだ。この物差しを使って、世間の常識という鋳型のなかに安住している人種と、常識にとらわれない人種を識別してきた。世界中に、さまざまな物差しを持つ人たちがいる。ひそかに懐に忍ばせ、あるいは大きく振りかざして。

マイクロチップの事故

9月半ばのことだった。ニューヨークのマンハッタンをうろついていた猫が保護された。名前はウィロウ、住所はフロリダと、すぐに判明。どうして分かったかというと、体内に情報を入れたマイクロチップを埋め込んでいたからだった。5年前に家出して、およそ2500キロはなれたニューヨークまできて遊んでいた。最近、迷子になった犬や猫が、マイクロチップのお陰でで助かっている。口がきけない彼らにとって大きな救いである。
ところが今回、ある会社の製品に故障が出た。チップを保護する表面のガラスに亀裂が入ったのだ。情報が読み取れなくなり、用をなさないばかりか、割れガラスの破片が体内に残った。この亀裂チップを埋め込まれた猫を、私は知っている。親友の猫だ。摘出手術をしなければならない、と友人は暗澹としている。会社に伝えたら、即座にチップ代を返金したそうだ。HPには、一部の製品で品質上の不具合が確認された。このマイクロチップが動物の体内に与える影響はあるとしても、極めて少ないと考えられる、として、飼い主様に多大なご迷惑とご心配‥‥、という常套句で結んでいた。詳細をお読みになりたい方は、以下のHPをご覧下さい。http://animal.ds-pharma.co.jp/ 
影響はあるが少ないという表現に確実性は見えない。言い訳に過ぎない、と言われてもしかたがない。欠陥商品だったから、じゃあ、お金返しますという。私は、摘出手術代を負担すべきだ、と憤慨した。友人は言った、「姿はネコだけれど、まさしく私の仲間、家族。モノではない」。
一所懸命に生きるちいさな命に対して、悪かった、の一言もない会社には、動物のための製品を扱う資格はないと、私は思う。

方位磁石

先頃買った方位磁石だが、私にとっては無用の装置が多すぎた。私は東西南北がわかればよかった。窓から外を眺める、南側とはわかるけど、すこし西に傾いていないかしら、そんな疑問がわいたときに窓辺に方位磁石を置いて針の揺れが止まるのを待つ。これで充分だ。買い替えたのは、針がつっかえて動かなくなったからだった。それが、新規購入の代物は、照準機のような仕掛けがついていて、実にものものしい。細い針金の線と円盤に穿たれた細い溝とを合わせて、はるか遠くの物体と合わせる。これは銃の照準と同じやりかた。太重斉に見せたら、これは登山用だ、と言って使い方を教えてくれた。目指す地点に合わせておき、山に登る。しかしブッシュあり谷あり川あり、常に目指す地点が見えているわけではない。このとき、見定めておいた方位が役立つというのである。納得はいったが、本格的な登山は夢のまた夢、ごつい磁石を机の上に置いて文鎮がわりにした。こうして眺めるうちに発見したことがある。
人生の大目的、とおおげさに構えるもよし、大災害復興を置いてもよいし、身近な人間関係のいざこざ解決を置いてみるのもよい。これに照準を当てる。目的地方位がこれで決まるのである。行く手を確認したあと、右に曲がり、左に折れて、と複雑な道を辿ろうが、目先のことで、ああ言った、こう言われた、とあろうが、目的の地点に向かうことだ。揺るぎはない。当たり前のことだけれど、大勢で取りかかっているような場合、目的が逸れて、途中の事柄が目的化してしまうこともある。見定めた目的の地を目指す。当たり前だけれど難しい。方位磁石はいま、文鎮となって本のページを押さえながら、人の生き方について語りかけてくれる。

昼の脳 夜の脳

ながいこと夢を見ていなかった。就寝時間が遅く、横になったとたんに意識がなくなるような眠り方をしてきた。遅く寝るのに朝が早い。4時には自然に目覚めてしまう。睡眠時間が極端に短くなっている。昼寝をする日もあるから睡眠不足を感じたことはない。これでよいと思って来たのだが、最近になって、たまたま11時くらいに寝る日が続いた。11時に寝たら早く目覚めるはずが、そうはならずに4時過ぎまで寝てしまった。
話はここからである。夢を見た。それも賑やかな多種多様な場面の夢満載、そして目覚めたときには夢を見たことは感じているが夢の中身は消えている。何日か繰り返して悟ったことは、やはり夢は見た方がよいのだなあ、ということだった。昼間の生活のなかの、事務的な事柄以外の部分が活発になる、と感じた。左右の脳がそれぞれに担当している役割があるように、昼の脳、夜の脳の担当分野があるらしいと感じた。昼と夜。光と影。
こういう、普通の人に無視されるような戯言を思いつくのが夢の力ではないかと私は、まじめに考えている。

歩くミイラ

千早がいたときは、自宅周辺をくまなく歩き回った。ふたり一緒だから、のびのび散歩ができたし、冒険もできた。千早がいなくなってから、ひとり歩きをしてみたが、虚しいったらない。徘徊とまちがえられる、ことはないにしても、この通りに用があるの? とうさんくさい目で眺められるのは面白くない。ここはなんだろう、と通り抜けできない道に入る私も悪いのだが。
湖畔は、単純一本道だし、散歩人間、ランニングの人、サイクリングの人、あるいは釣人、富士山撮影の人だから気楽である。なるべくこちらから、おはよう、と声をかけることにしている。外国の人の場合は、なおさらである。よくまあ、日本にいらっしゃいました、の気持ちで、おはよう、という。一般の観光客は、都心の通りと同じ感覚で、挨拶など思いつかないらしい。こういう人たちはすぐ分かるから、たがいに知らん顔をしている。土地の人や、住み着いている人たちが、よく挨拶をする。何度か、頭を下げるだけのすれ違いを繰り返してきた犬連れの人が、今朝はいい富士だね、といきなり言うときもある。楽しい。
ミイラ? そう、このなかに時折ミイラが混じっているのだ。歩くミイラである。ほとんど、というより私は女性らしきミイラしか出会ったことがないのだが、まず、目深に帽子をかぶっている。サングラス、巨大マスクをしている。夏だろうと長袖、手袋をしていることもある。足先まで完全に包まれている。これをミイラと言わずしてなんと言うのか。ミイラではないか。おはよう、と声をかけたくても相手の表情は、完全に覆われていてわからない。手振りそぶりもない。無関心派の都会人は、視線を送って来ないことがはっきりわかるので、問題ないのだ。まったく分からないと、対するこちらは、どういう態度に出てしまうか、というと、ミイラに対する視線となってしまうことを発見した。つまり、ためらうことなく眺めてしまう。生きている人間扱いをしなくても許される気がするのだ。
ネットに日常の困ったことなどを提示して、意見を言い合う場がある。そのなかに、近所の人たちとの人間関係が苦痛だ、という相談があった。これに対するアドバイスの一つに、大きなマスクをして、大型のサングラスをかけるといいよ、と言うのがあった。安部公房の小説『箱男』の時代から『ミイラ女』へ時代は変貌する。

同じ空

道に立って東を見る。日の出だ、紅色に染まっている。見上げると今日も快晴、秋の雲は高い。しかし、それは切り紙細工のように、ハサミで切り取ったような空と雲である。
切り口は、我が家の屋根であり、隣家の屋根屋根、縦横に張り巡らされている配電線の黒い筋、電波の柱であり............。
私は、頭の中で切り紙を消してみる。目の先の道路標識も、遥か遠くの建物も、水道タンクも、すべて消してしまおう。
まあああああ! なんと美しい。東京だって川崎だって、おなじなんだ、山中湖の鏡のような湖面に映る空と。金色に波打つ越後の稲田を覆う空と。
タクラマカン砂漠の空も、カンサスの空も、アリゾナの空も、東京の空とおなじはずだ。

カラスとハクチョウ

烏と白鳥の観察が「世相」に分類されるかどうか疑問だけれど、両者の違いは黒白だけではない。烏は、おしなべて仲が良く、烏同士の争いというものを、私は見たことがない。ほかの鳥を追いかけたり、追いかけられたりする事は、よくある。あんがい弱くて、オナガにやられて逃げ惑うのである。
性質が露になるのは食物を見つけたときで、烏は極く少量の餌を1羽が見つけた時は、ひとり黙って食べてしまう。2羽で少量の餌を見つけた場合が問題になるが、2羽揃って少しずつ食べる時と、1羽がほとんど食べ尽くしてしまうまで、離れて待っていて、残りを、もう1羽が食べる場合がある。しかし、取り合って争うことはしない。これが烏の大きな特徴だと思う。大量の餌を発見したとき、これはゴミ置き場で生ゴミ発見の場合が多いのだが、自分だけで食べきれない大量の餌だと認識したとたん、大声で喚き出すのである。この声によって近隣の烏が一挙に集合することになる。集まって来た烏同士は、ポリ袋を破いたり、ネットを持ち上げたり協力して働く。この有様は見事というしかない。
一方、山中湖で保護され、繁殖もしているコブハクチョウの態度をつぶさに観察することができた。白鳥の餌として売っている粒餌を撒いてやる。あるいは食パンのかけらをあげる。一握りの餌を一カ所に撒くと、数羽が集まってくるが、中でも大柄な白鳥が、傍らから食べようと首を伸ばして来た者に噛みつく。噛みつくといっても歯がないので嘴で相手の長い首を力任せに挟むのだ。これで相手は怯み、食べられない。そのあいだにあるだけを1羽が急いで食べてしまう。これでは体格の良い者がたくさん食べる一方、食べられない者はほとんど餌にありつけないことになる。私は離れた所に別々に撒いてやるが、これは一時しのぎでしかない。見とれる美しさの白鳥には似合わない態度。このような独り占めの態度は、鶏にも見られる。レグホンという白い鶏がいるが、これも餌の取り合いが激しくて、弱い鳥は頭を突つかれて血だらけにされてしまう。白鳥は嘴ではさむのだが、鶏は突つく。
嫌われ者の烏は、姿で嫌われるが行いは見ていても快い。ゴミを散らかす云々の苦情は、烏の側ではなく人間側の問題なのだ。姿で愛でられる白鳥は、行いについては、あまりよいとは言えないのだが、人々は目を細めて白鳥を眺め、写真を撮り、烏は追い払われる。
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