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壺猫

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Jun 2019

入センター 続

日記で学校に通う子供たちが環境に順応してゆく有様の感想を書いたが、高齢者が新しい環境に入ることについては、考えがまとまらずにいる。
そこで、私が当地に住み始めて出会った、この土地の高齢者のことを思い返している。
縁あって400年前から住んでいる家庭とお付き合いをさせてもらってきたおかげで、その家のお婆さんの暮らしぶりに接してきた。
お婆さんは耳がよくて普通に話し合うことができたからテレビドラマの話もした。あれは見ない、と「おしん」というドラマについてハッキリ言い、だって同じだったから見るのがつらい、と。
農家を継いだ長男のお嫁さんは、やがて立派な高齢者となったが、超高齢お婆さんの仕事には手も口も出さない。
お盆さんが近づくとお盆飾りの素材を集めて庭に置くが、それ以上は手伝わない。お婆さんの働きで盆飾りが出来上がると、訪れる近所の我々に自慢する、
お婆さんのおかげでねえ。見てくださいよ、お婆さんしかできないんですから。
もう一軒の家でもお婆さんが超高齢になった。孫娘が勤めに出るようになり、勤め先の縁で布切れを持ち帰る。
これを細く裁断して、糸を通した針を針山に何本も差しておく。お婆さんは縁側に座り、腰紐を縫う。お婆さんから見ると孫娘のお母さんは息子の嫁だ。
高齢の嫁さんは、色とりどりの腰紐を並べて言う、どうか貰ってやってください。私たちは縁側に斜め座りをして雑談をし、腰紐をいただいた。
お婆さんは傍にお菓子箱を置いていて、下校する小学生たちにあげていた。これはウチの子から聞いて知ったことで、だから子どもたちはお婆さんが大好きだった。
いま、お婆さんは二人ともいない。なんだか風邪みたいだって寝たんだけど。寝込むたって2日。3日だったかな、亡くなってしまって。とのことだった。
どちらのお婆さんだったか、お二人とも同じようだったのだと思う、これはデイケアセンターとか、特養や老人ホームなどができる前のこと、昔話です。
今は、地域包括センターなどの車が走り回り、送り迎えをしている時代。
なんとかセンターの中では、きっと楽しいことだろう、和やかな笑いがあることだろう。でも、必要とされているか、どうか。
こんなことを思うのは、現実を知らない夢みるおバカさん、なのかしら。

電子書籍

電子書籍が現れてから9年、来年で10年にもなる。2社の製品を使っているが、その一つ、kindleの使い勝手が良い。
何しろ読もうと決めてから、わずかのキーボードの操作でたちまち手元に現れるのだからありがたい。
こうしてせかせかと欲しがるのは、たいてい資料のためだから、用事のある部分だけを使えば終わってしまう。
これだったら満足度100%と言って良いのだが、初めから終わりまで「読書」しようとすると、たちまち腹が立ってくる。
日本語の本の場合だが、不意に現れる傍線とコメント。目立たぬように、細い破線ではあるが傍線が引かれて、その冒頭の肩に「xx人がハイライト」と記してある。
たまにある場合もあるが、続く場合も多々ある。古本じゃあるまいし、傍線のある本なんか買った覚えはない。傍線あり、の場合は、古書でも価格が下がるのが常識だ。
いったい、どこの誰が他人のハイライトを見たがるのだ?
ハイライトというのは、マークしたい部分を指でなぞると色が変わる仕組みで、傍線を引くというより蛍光ペンで文字の上をベタ塗りにした感じである。
昨夜買った本を使おうとして開き、怒りが再燃した。腹が立ってかなわない。

テレビという代物はニュースを伝えるものではない、ニュースだったらネットの方が早いし、情報量も多い。
テレビは「みんなは、どう感じてるのかな?」を伺うためのものだ。だから、テレビを見て喜ぶ奴どもがハイライト何人、を知りたがるのではないか。
周囲の反応をうかがってのちに、自分の反応を決めようという化け物、幽霊。実態のない、無に等しいもの、それがうようよしている。
ハイライトの怒りの炎はさらに燃え上がり、だらけた幽霊、後出しじゃんけんを利口者と任ずる下劣な奴らに類焼する梅雨時の朝である。

もう一つの機種の方には不満はない。地味で大人しい器械だ。
この中に蔵書を自炊して収納している。自分で自炊した本もあるし、業者に依頼したものもあるが、もともと手放したくない蔵書だから、
内扉に蔵書印があり、書き込みも全部、そのまま入っている。ま、いいか。鎮火。

座禅

最近、座禅を復活している。まだ10日足らずであるから、始めたばかり。
今回の座禅再開は自宅での単独座禅。
以前は禅寺に通っていた。日曜日の早朝に座禅の会が開かれるお寺で初歩から指導していただき続けていたが、何かの怪我がきっかけでやめていた。
非常にしばしば怪我をするので、どの怪我が原因で辞めたのか思い出せない。
今回は単独修行。まずは、高野山のお坊さまたちがお作りになられたというお線香を500本買い求めたのである。
これで毎日一回、怠けずに座禅修行をするとして、約1年4ヶ月分の線香を手元に蓄えたことになるから前途洋々である。
1本のお線香が燃え尽きるまで約40分かかることがわかった。500本で2万分。これから2万分を無念無想で過ごそうというわけです。
座禅はじっと動かずにいるけれど大きな運動で、ある意味体操に匹敵すると思っている。
歩禅も運動になるが、正しく背骨を立てることが、私にとっては座禅から受ける大きな恵みなのでとても大切に思っている。
難関が無念無想。人間、眠っていたって無心ではない、夢を見てしまうこと屢々。
夢とは、日中の生活時に処理しきれなかった残滓を処理する脳内の作業過程が映像として見えるのだ、という説があり、これは説得力がある説だと思う。
座禅では目を閉じてはいけません、半眼を保ち、意識は清明にする。その上で無念、無想を行うのであるから、夢のように脳みそに任せるわけにはいかない。
いい加減にやることは簡単で、誰にも見えないのだから、何を考えていても済んでしまう、でもせっかくの修行だからと、
本気の無念、無想に立ち向かうと、これはもう、重労働としか言えない苦行と感じます。
ここまでが前置きです。
さて、夜明け前の庭に端座して座禅。なんとも素直に、なだらかに無念の境地、無想の世界が開けてくる「いっとき」に恵まれた。
清掃を行ったかのような、自分自身の心の部屋の中を感じ、期待もしなかった世界に驚いている次第。
喜ぶ以前の驚きで、無念とか無想とか言うから話がややこしくなるのであり、心の掃除、と言い換えるとわかりやすいし、手がとどく存在になるような気がした。
毎朝、30分ちょっとの時間、心のお掃除をする。
自分風に言い換えてみたら、2万分、行けそうな気になりました。

パンの感触

パン屋さんがたくさんある。
あんぱん、メロンパン、カレーパン。新作の人気パンも色とりどり。店の看板パンもある。
見た目も魅力いっぱいで、しかも美味しい。
好きなパンを持ち寄って、スープとサラダ、コーヒーのおしゃべりランチは手軽で気軽、すごく楽しい。

最近感じていることだけれど、この菓子パン類に限らず、食パンも、なんか、何かが変わってしまった気がしている。
口当たりが良くて、ふわっと軽く、いくつでも食べられる。お腹にズシリと来ないパン。
穀物を粉にして、こねて丸めて焼いていた時代から、完全に制御された工程を流れて末端消費者へ届けられる時代に移ったので、
その過程では消費以前に必要とされる加工と添加、つまり保存のためとか発色のためとかが数多あり、これも日々研究更新されているに違いない。
だいぶ前から末端消費食品の価格の値上がりが密かに続いてきており、最近ようやく、値上がりが顔を隠さずに現れ始めたところだ。
例えばパッケージを小型化して価格を据え置く方法などが多用されてきていたが、私の邪推だろうが、消費量を増やそうとしているような感じを受ける。
コクのない、お腹にたまった感じの少ない、見た目は大きくて派手なデザインで、実際にすごく美味しい菓子パン。
100円だったパンを134円にするだけでなく、3個買おうか、と迷うところを5個食べたい、とお腹に言わせる作り方をしているんじゃないか。
食べて美味しく、見た目も楽しい。もっと食べても大丈夫。お腹にはまだまだ入ります。
パン屋さんに並ぶ行列を眺めて、こんなことを腹に蓄えているのは、なあ〜

自分を信じない

自信がある、ない、という。これは自分の能力を信ずる、自分自身を信頼する、というような意味でしょう。
最近私は、自分自身の運動能力を信用しないことにしました。
高齢者の自動車運転能力について危ぶむ声があちこちから聞こえますが、車どころか自分の体を動かすことさえおぼつかないというのが現実じゃないでしょうか。
高齢の知人たちから、なんとしばしば「転びニュース」が届くことでしょう。転んでもただでは起きないのは若者です。タダでは済まないのです、骨折へ、安静へ、と進んでゆきます。

私は長い間犬と暮らしてきて、今は猫と暮らしていますが、犬、猫たちから学ぶことの一つが、高齢化した時の暮らし方です。
犬の場合、散歩している時に出会う相手と自分自身との力関係を、瞬時に見てとります。相手が犬であろうと、人であろうと、なんであれ動くものに対して見計らうのです。
壮年期の充実している時代には、胸を張り、正面から相手を見据えながら堂々と歩をすすめる、その様子は自信に溢れたものです。
犬の性質にもよるのでしょうが、私の相棒犬、千早は、攻撃的な気持ちは湧いていないが、比較にならないほど自分は強い、という気持ちに満ちていることが伝わってきました。
やがて高齢になり、歯を、特に犬歯を失った後の千早は態度が激変しました。
行く手から近づく大型の若犬に対してどうするか、というと、気がつかない顔をするのです。素知らぬ風で目をそらせるのを、相手も受け入れてくれて知らん顔ですれ違います。
冒険大好きで、どこにでも一緒に行っていた相棒だったのに、年を取ってからは毎日決まり切った散歩の道だけを、なぞるように歩くことを好むようになり、
しかも草の葉や石ころの一つなどに鼻を寄せて仔細に嗅ぐことが目立つようになり、慣れた場所で馴染みのにおいを確かめることが、彼女の大きな満足になりました。
年をとるって、こういうことなんだ、それを自然に受け入れて暮らしていると感じて、しみじみと心にしみたのでした。
その後、猫と出会って最期まで一緒にいましたが、この猫からも学びました。
隣の家の物置小屋の屋根から、わが家のベランダに、まるで空に浮かぶかのように身軽に飛び移ってくる。後足の跳躍力の凄さ。跳ぶ前に注意深く見計らう眼差しの真剣さ。
そして思う通りのジャンプを成功させます。
野生のものたちは命がけですから、スズメもツグミもムクドリも、猫に狙われたら必死で身を守る、それぞれの能力全開で猫から逃れようとしますが、若猫の能力はそれに勝っています。
この子、メロデイは、やがて高齢になり、1メートル足らずの台に飛び上がることができなくなりました。
推し量っている眼差しを見つめていると、彼女が自分の体力と台の高さを考えて、やめよう、と決めている気持ちが伝わってきました。
メロディは、記憶にある能力、空に浮かぶかのように跳躍できた過去を完全に棄て去り、今現在の自分の体力と相談しているのでした。
私たち人間は、なんと記憶を大切に抱え込むことでしょう。
二段飛びで駅の階段を駆け上がった記憶を抱えながら、玄関の上がり框に引っかかって転ぶ姿は、猫も呆れる馬鹿らしさではないでしょうか。
凡人の私は、仲良しだった犬の千早、友達だった猫のメロディから学んだ知恵に従い、過去の記憶に座らず、今の自分を見据えることにした次第です。

ロシアの作家、レフ・トルストイは、82歳の時に家出をして鉄道の駅舎で命を終えました。
寒いロシアの11月末です、承知の上での行動は、人間が記憶から自由になれないこと、肉体で生きることを超えて心で生きる生き物であることを伝えてくれるように思います。



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