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壺猫

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Feb 2014

ソチ・オリンピック

ロシアのソチで開かれている冬期オリンピックが終わりに近づいた。テロが心配されたが順調に見える。このまま無事に終わって欲しい。女子スキージャンプの高梨沙羅選手は金どころかメダルなし、前評判ではメダル圏外にいたスキージャンプの葛西紀明選手が銀メダルと、いかに予想が予想に留まるかの見本のような競技だった。私はこれ以下はない、という運動音痴というか、できない、知らない、経験したことのない世界なので、どの競技も均一に眺め、興味津々で自己流に楽しんでいる。
オリンピックとは少し離れた関心事になるが、美しいフィギュアスケートは飽きることなく眺める。私は、以前に活躍したドイツのカタリーナ・ビットが気に入っていて、以後、もっとも気に入っていたのが安藤美姫だった。このふたりには国境を越えた優美さがあった。日本では今、浅田真央選手に絶大な人気が集まっていて、贔屓の引き倒しが案じられる程だった。フリーの演技が終わったときにインタビューに答えて「取り返しがつかないことをしてしまった」とショートで16位と出遅れたことを振り返ったのを聞いていて私は、本音を言葉にしたと感じ、心底哀れに思った。これほどまでに思わせたのは好意に充ち満ちた多くの人の力だろう。
「取り返しのつかないこと」は、ある。しかし今回の真央ちゃんが、一夜にして自分自身の内側から立ち直ったように、取り返しがつくことはたくさんある。じゃあ、ほんとうに取り返しのつかない事って、どういうことだろう。誰しも思うこと、それは「死」の手によって持ち去られた命だ。これこそ取り返しがつかない。夏目漱石も書いているように、それ(死)以外のことは、すべて喜劇と言い切ってもよい。
しかし、ひとつ付け加えるとすれば、として私はオペラ「カルメン」のワンシーンを置きたい。第一幕、カルメンが伍長のドン・ホセに薔薇の花を投げる。この瞬間、舞台に流れる旋律は「ああ、取り返しのつかないことになってしまった」という悲痛きわまりない、しかしなんとも甘美な味わいを持つ音色である。私は、何度聴いても聴くたびに胸が締めつけられる。引き返せはしない、取り返しがつかない。この旋律に、恋という雷に打たれた無垢の青年の命が乗せられて、破局へと流れゆくのだ。
それはさておき、どうしてこれほど真央人気が高いのか。どうして韓国ではキムヨナ人気が高いのか。私は、キムヨナさんの、いつもと変わりない演技を見ながら彼女にチマチョゴリを着せて見た。うなじの傾けよう、切々と腕を伸ばし訴えかける表情。これが似合うのだ、民族衣装に。勿論、他国の選手にも着せて見たがそぐわないこと夥しい。そして和服での舞い姿は、真央ちゃんでなければ似合わなかった。他国の選手では香りが立たない。それぞれの国の人々は、馴染んだ香りをかぎ取り味わい、楽しむ部分を持っているのではないかと感じた。真央ちゃんが表現力云々という評があるが、「和の心で舞う乙女」として眺めた場合、これ以上はないほどの素晴らしい「舞い」なのだと思った。おまけに真央ちゃんの顔は、おひな様そっくりではないか。おひな様の舞姿とも見えるほどだ。点数としてカウントされる技術の部分は、スポーツとしてやっているので、この感覚には関係はないことだ。

オレオレ詐欺

いや。ダメ。これが一番言いにくい言葉だ、と書いていて思いだしたのが、おれおれ詐欺、いまは母さん助けて詐欺とも言うらしい。最近、警察では、実の息子から、実の母親に、おれだけどと電話をかけてもらい、本番に備えてリハーサルをすることを勧め始めたという。これは、我が息子が私にかけてきたふざけ電話そのものではないか、と驚いたり笑ったりだった。しかし、こんなリハーサルが出来るような関係にある親子だったら、詐欺に引っかからないのではないかしら、とも思った。
それはともかく、実の息子からであれ、ん万円いるんだけど、と言われたとき、「いや」「ダメ」が言えないことが問題だと思う。もし私が何万円とか言われたら、即座にダメと言う。その理由は、困難を金で解決しようとすることを断るからである。だから迷うはずがない。逆に言うと、詐欺に遭う人たちは、困難を金の力で解決してきた人たちなのだろうと思うのだ。

気のせいかしら

あまりテレビを見ないが、次男がくれたテレビが、びっくりするような美しさで、鮮明に見えるので、つい眺めてしまう。それで、気がついたのだけれど、自衛隊のどこそこの生活ぶり、お昼ご飯。消防隊の訓練、警察の新人たちの訓練風景。警察、消防、自衛隊、などの「日常生活」が頻繁に紹介される。またやっている、と思うが再放送ではない。次々に作るのだ。意図的にやっているのではないか、気のせいかしら。徴兵制度復活の下地を作っているのではないか。しかし、誰も、なにも言わない。

認知症について

長い間、ひとり胸の底で感じながら考えていることである。こんな名前がつけられる遙か以前、私が五、六歳のころから母と祖母の会話を聞きながら感じつつあったことである。祖母が親戚の誰かの所へ見舞いに行き、寝ている婆にミカンをあげた。婆は泣き、嫁がなにも食べさせてくれぬと、ミカンを食べ尽くし、さらに泣き続けた、と帰宅して母に話すのだ。泣き中気でしょうか、という結論になる。そういうもんだよ、怒り中気もあるし、と話し合う。私の曾祖母が米寿を過ぎたころ、母が見舞いに行ったら、母の名前を母の母の名と取り違えて喜んだ、お前、生きていたんだねと、しがみつかれたと、これも帰宅して姑に話す。そういうもんだよ、と穏やかな頷き合いが生まれていた。
いま、認知症という名の箱の中に押し込められてゆく人々は、ほんのちょっと前までは、そういうもんだよ、と穏やかに受け入れられていたのだ。特別の箱の中に入れられることはなかった。脳みそのどこの部分が真っ赤になっていると、そこが活発に働いているのだ、と画像を見せられると、そういうもんなんだ? と教えられ、知識として記憶する。しかし、これは納得とは違う。
私自身について考えてみると、物忘れが頻繁に起こっていることを自覚している。昨日の雪のあと、凍った道路がこわくて、今朝のゴミ捨てを止めた。おりしもソチでオリンピックの真っ最中だが、あんなモーグルなどやったら、一つ目のコブで転倒、骨がバラバラだ。体力、脳力、現時点での判断が必要なのだ。現時点での判断を的確に行うのが犬であり、猫である。彼らと共に暮らすと、学ぶ事が多い。千早もメロディも見事だった。
私は、周囲の人たちの対応によって、肉体の一部である脳の老化は、だいぶ違ってくるのではないか、と感じている。自分自身でおのれの尻を叩き鼓舞するのも効き目があるが、周囲の力がバカにならないと思う。親切の余りに先回りして、荷物を持つ、柔らかいモノを食べさせる、雑用はしてあげる、さらに判断し、決定する役割を取り上げてしまう。見計らいのモノを提供する。温泉に連れて行けば大喜びで、それ以上のなにかを思いつこうとせず、満足する年下の親切者たち。シニアホームのケアが、これである。至れり尽くせりにすることが最上であると信じている。これは、認知症へと誘っているようなものだと、私は感じている。
至れり尽くせり型のほかに、きわめて辛い境遇にあり、それが精神的なもので傍目に見えない場合でも、耐えられないばあいに、人は眠りたくなり、休みたくなり、これに孤独が加わると認知症へと誘われてゆく。この世の苦しみから逃れるために。医者は、こんなばかげたことを言わないが、私は、こんなことってありますよ、と言いたい。この年寄りは、もう我が家には不要なんだ、そんな思いが家族のなかに生まれ、ときに理性で打ち消しても、存在するような場合、対象となる本人の感覚は、想像を超えた鋭敏さで捉えている。そして、そんなことを言われたって死ねないんですもの、と悲痛な叫びをあげるのだ、心の中だけで。そうして生きながら眠りについて行く。
ほんのちょっと、人を取り違えたり、ありもしないモノが見えたり、聞こえたりしたとしても、打ち身が治るように、腹下しが治るように、回復するのではないかしら。私は、あなたを必要としています、こんな声が届いたら、振り向いて戻ってきてくれる人たちが、箱の中にいるような気がする。もっとも打撃を受けるのは、判断し、決定することを取り上げられることではないか、とも思うのだ。
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