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壺猫

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Dec 2015

個籍のすすめ

私は小誌「夢類」の創刊号で述べたとおり、日本国の用いている戸籍制度に反対です。繰り返しになりますが、個籍にしたほうが率直で素直です。
創刊号では、この点、犬の血統書のほうが、より優れていると書きました。今でも、この考えは変わりません。
イワシ共は言う、じゃあ、墓はどうなるんだ? じゃあ、浮気で生まれたアイツは、どうなるんだ? 一家団欒はどうするんだ?

だいたい、戸籍を作るについては必要があったから国が作ったのでした。なんでも中国の真似をしていたころ、あちらの制度を真似したのです。
奈良の大仏さんをつくる大工事の時には、すでに戸籍制度が整っていました。戸籍を作り、家々を数軒まとめて相互監視させて、生活に縛りを掛けました。租庸調の税の徴収のためです。働かない貴族たちが、上品で贅沢な暮らしを続ける為には費用がかかります。北の地方を攻める軍事費は、バカになりません。
民の竈から煙り立つ景色をご覧になった天皇が安心した、不自由なく食べているかと、国民の暮らしをやさしく見守る天皇の御心は、かくも素晴らしいものだ、とは、国民学校で習った教科書の内容でした。冗談じゃない、ううむ、まだ余裕があるな? もう少し税金を増やしてもよかろう、そう観察したんだな、と今の私は思います。
ところで話を戻すと、大仏さんを作るから各戸から男子を一名づつ出せ、などと命令がくる。一家の働き手を取られてしまったら、残る家族は食うに困るのです。当時は、ウチの夫は、こないだから行方不明になっちゃって、などと言い訳をして、夫は闇に紛れて家を出て、離れた所で稼いでは、家に生活費を入れていた、そんな記録もあります。脱税ですよね。今の世は、脱税をすると重加算税をとられたりして、ひどい目に遭います。
言いたいことは、戸籍は国の利益のために作られたもので、本来、社会生活には百害あって一利無しの代物だと言うことです。
別姓は言うに及ばず、戸籍という化石からして、根こそぎ止めてしまえ、というのが私の主張であります。

夫婦別姓問題

2015年12月16日に「夫婦別姓禁止が合憲か否か」の問題で最高裁の判決がでました。これは国民全部が別姓にしようというのではなく、どちらか選ぶことができるようにしよう、というものです。この問題は、2009年に民主党が公約の一つとして掲げたときから、私は近代化の一歩として期待していました。個人個人の不具合、不自由を主張して変えて欲しいと言う問題ではない、個人を離れて、根本的に個人を尊重するあり方として、ナンセンス、あってはならない、噴飯物の束縛だと考える故です。
判決は、夫婦同姓規定は合憲であるというものでした。
今回の裁判で原告が主張する内容の趣旨は、個人の不自由、不具合の解消を訴える物だったように受け取っていました。ここが私の意見と相反する点です。判決が合憲と出たから、けしからん裁判長だ、あるいは15名中、10名が合憲としたのだから、合憲は正しいのだ、という、賛否両方の意見の人たちがいますが、私の受け取りかたは、裁判で決める問題ではない、訴えの内容に関しては、こういう結論ですよ、という意味ではないかと感じました。訴えの内容のレベルが低かったのです。
今回の裁判で、裁判長が言った言葉、このことは国会で議論して欲しい、ということが、この裁判の一番の眼目であったと思います。ここで違憲ときめつけることが、もしかしてできたかもしれない、しかし、それよりも、国民の心からの意志を尊重しましょう、と、この裁判は言ったように感じています。結果には不満ですが、ここは、もう一息頑張って、深く考えを進めるべきだと、私は思います。
カール・ヤスパースが口を酸っぱくして繰り返し述べていることですが、自説を声高に言いつのるより先に、反対意見を十分に聞く姿勢を保つこと。これがいま、必要とされていると思います。
夫婦別姓を望む意見の人は、夫婦同姓にすることに反対していません。好きな方を選べるようにしましょう、と主張しています。
これに対して、夫婦別姓反対を主張する人は、選ぶことも禁止だ、なにがなんでも同姓にすべきだという意見です。この、不可解な「束縛」を主張する理由を、私は鵜の目鷹の目で探しましたが、なるほど、そういう理由があったのですね、という意見に出会ったことがありません。家族の絆、美しい伝統、そんな言葉がちりばめられてのちに、だめだ、の結論です。思考停止で変化を嫌っている、代々に渡り洗脳されきった自己喪失状態としか思えません。
一方、政権与党は合憲の判決に大満足です。もしも別姓を容認したら、少子化に歯止めがかからない、と危惧するのだという意見もありました。マイナンバー導入まで漕ぎつけたいま、ますます一億総まとめにして、一つ網に押し込めたいときに、選択制であれ、別姓は好ましくない、まとまりをなくすものという認識なのでしょう。このさき、自衛隊員の増強、徴兵制へと進めてゆくに違いありませんからね。現に関連学校が募集人員を増やしているではありませんか。

私は、すっかり立腹して、バカなイワシはまとめて網にかかり、肥やしにされてしまえ! と罵倒しています。
私が怒り心頭、ハンパなく怒っているのは、裁判官ではない、アベもどうでもよろしい、いまの政権が消えても、第二アベが出るだけですから。一人一人の日本国民が、あまりにも自分の目で物事を見ない、自分の頭をつかって考えない、スマホ握りしめて、口当たりの良い食物に群がることしか念頭にない。この、救いようもないイワシ的日本国民に対して絶望的に怒っているというわけです。
続きます。


ネットの力を信じよう

久しぶりに友人の葵さんが遊びに来た。一世代若い彼女に私は安倍政権の危うさを語り、いまの日本の様相は真珠湾攻撃前のころの空気と似通っている、と私自身さえもほとんど知らないころのことをしたり顔に話して腹を立てた。私の主張は一つ、戦争をしないことに尽きる。たとえ百年を費やそうとも、根気の良い話し合いによって進めてゆくべきだと思うのだ。更に怪しからんことにメディアは権力に迎合し、国民に発信すべき事実を隠蔽、変形させる。ここで黙っていてはダメだろう、というときに見て見ぬ振りだ。と私の怒りは罪もない葵さんに注がれた。葵さんは動ずることなく言った、「あの頃と違うことがひとつあります。それはインターネットを一般の人が使いこなすようになったこと。私は、そこに希望を見ています」。
そうか、と私は日頃の行いを振り返って納得した。なぜメディアが事実を変形させて報道していると分かったのだろう私は。世論調査の数字がデタラメであること、あの偽数字がいかに醸成されるかを、私は何故知っているのだろう。ニュースに出ない昨日のデモが、どこで、何人の規模で行われたかを、どうして知っているのだろう。
私は明るい気持ちになった。もしかするとネットの力が平和を守るかもしれない。
戦争愛好者という悪魔は、あらゆる科学技術を戦争に用いてきた。第一次世界大戦ではラジオと無線電話が開発され、第二次大戦ではレーダーが主役となり、女房役は電子計算機だった。この二つが船舶と航空機に自由を与えた。缶詰が軍事目的に開発されたなんて、誰が思うだろう。最近のことでは、ビルが乱立して電波障害が起きるのを防ごうとした日本の科学者が、フェライトという酸化鉄を入れた塗料を開発、これをビルの壁に塗ったところ、電波を吸収してテレビのゴーストが消えた、という喜ばしいことがあった。アメリカは、このペンキを飛行機に塗りたくり、ステルス戦闘機と名付けた。
ネットは玉石混淆、入り乱れてはいるが、生身の人間の眼力も進歩してゆく。一昔前は新聞とラジオだけが知る道であったが、いまはネット時代。地球丸ごと掌に掴めるのだ。ヒトラーの演説も大本営発表も懐かしのメロディだ、ましてや安倍首相の、アンダーコントロールに至っては何をか言わんやである。彼の舌の根が乾かぬうちから、日本国民は大笑いしていたのだ。
科学技術は、いままで散々戦争に利用されてきたが、ネットは個人の眼と指に直接繋がっている、だれも奪うことはできない。ネットの力で戦争をはねつけて平和を守ろう!

水木しげる、あちらに移動

水木しげるさんが亡くなられた。昨日、京王線・調布駅を通りかかったところ、改札口に立て看板あり、深大寺行きバスの案内が出ていた。先年より市バスの車体に鬼太郎一族が描かれており、妖怪カフェもあり、深大寺には、もっとあるので多くのファンが集まるのだ。境港市と調布市の両方で、そして全国で親しまれている。
以前のことだが、仕事で水木家を訪問した人から聞いたのだが、膨大な量の資料に息を呑んだ、と言っていた。極貧時代の後、次第に収入を得ることができるようになったとき、彼がまっさきに手に入れようとしていたものは、日本の伝統資料だった。幽冥界、妖怪世界と付き合う生身の人間は、うっかりすると行ったきりになりかねないものである。まじめに危険なものなのだ。しかし水木しげるは、大丈夫だった希有の人である。冗談とユーモア、そして奥さんが、この世に3割の居場所を確保してくれていたのではないか。たぶん、今迄どおりに行ったり来たりなさるのではないだろうか。
鬼太郎は昭和の少年だ。半ズボンに、素足の下駄履き。チャンチャンコは鬼太郎が背負う伝統であろうか。このキャラクターは、それまで柳の木の下にいた「お化け」を、子どもたちの遊びの場に引き出してしまった。墓場で運動会。これでは怖くない。
この大転換は、たぶん成り行きから生まれて育ったものだろうと推測するが、非常に大きな出来事だった。私は、水木作品とディズニーが産みだした数々の古典作品の映画、たとえばグリムの映画を並べて考えており、この二つが世界中に及ぼした影響の大きさを思う。闇を闇でなくし、恐怖を消した水木。結末の悲劇・残酷性を消して王子王女の結婚などの幸せに変換したディズニー。
時代の流れから生まれる必然的変化であるかもしれないが、双方、「こどもたち」に与えているのだ、この力を。影響は、じわじわと現れつつある。どうする?
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