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壺猫

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Aug 2019

乗用車の顔

車を正面から眺めると、左右に付いているヘッドライトが目玉のように映り、なんとなく顔のように見える。
私が持っていた車は、まん丸な目玉で、まるで笑っているかのような表情だった。私の仲良しさんが持っていた車も、車種は違ったけれど笑顔で小柄な車だった。
世の中に車が氾濫しているけれど、まん丸目玉で笑顔の車を見つけるのは難しい。本当に貴重な車だった。
顔と思って正面から見てみると、恐ろしや、目がつり上がり、歯をむき出し、噛みつきそうな表情をしている。いまどきの乗用車は、皆コレだ。
大型のトラックなどの仕事車は、そんなことはない。真面目な、四角張った表情で黙々と働いている。
なぜ、どうして、乗用車の表情を、これほどまでに獰猛なものにする必要があるのだろう?

高齢者の務め その3

大日本帝國が、戦争に負けてからハダカの日本国という名に変わり、74年経ったという。
ごく最近になって、あの時の戦災浮浪児が8月のニュース周辺の報道に現れるようになった。
私自身は焼け出されてのち転々としてはいたが家族は無事だった。ラジオでは菊田一夫の子供向け連続ドラマ「鐘の鳴る丘」が放送されるようになり、毎回聴き入っていた時代だ。
これは戦災孤児たちが収容されている施設のドラマだった。当時、東京上野の地下道には、浮浪児が溢れていた。上野の子達は、親代わりの人さえもなく、どんどん死んでいった。
私たち子供は、国民学校から小学校と名を変えた学校の校庭で始まった青空教室から、バラック校舎ができて二部授業に変わり、午前中通う生徒と、午後から学校へ行く子たちがいた。
半世紀過ぎてからも、上野の子達はどうしているだろう、と度々思いやったが、手がかりはなかった。ごく最近になって図書館で1冊見つけたところだった。
それは戦災孤児が自ら記した記録ではなく、子供らを救い、食べさせた人が書いたものだった。
栄養失調と感染症で死んでいった中で、生き延びた数少ない孤児たちには、青空教室さえもなかったのだ。
邪魔にされ、信用されぬ目に晒されながら、命の糸だけにしがみついてきた孤児たちに、今、どれだけの表現出力があるだろう。
戦争を知らない世代の人たちの、まっさらな澄んだ目で、年老いた孤児たちから、わずかでも聞き取って残してほしい。戦争がもたらす影響は、破壊と殺戮の現場だけではない。

さて、高齢者の務めとして、戦争の記憶を後世に残す仕事がある。
こんなに殺されました、こんなに焼けました、という現場と並んで、ぜひ語っていただきたいことは、以後、どのような衝撃によって、どのように自分自身が変化したか、という心の軌跡だ。
私は、全国各地の同人誌で活躍している高齢の作家たちに、このことをお願いしたい。筆力のある方々である、高齢でなければ成しえない仕事であります。
高齢者の務め その2で、少し引き合いに出させていただいた仲代達矢氏。
終戦を境に、大人たちがどのように変化したか、その変化ぶりを眺めていた少年の目が、何を捉えたか。仲代達矢さんは、「大人ども」と表現して語っていられる。
やがて日本を代表する大俳優となる仲代達矢さんは、「大人ども」の変化ぶりを目の当たりにしたことが、炸裂する衝撃だった。あれほど憎み嫌っていたアメリカを、一夜明けたら……。
少年、達矢は、学歴、職歴なしの姿で世に出て行く。これが、戦争が仲代さんにもたらした影響なのだった。
役者さんだから、多感な少年時代に、この変化をもたらした怒り、落胆、悲哀、諸々を、映像として手渡してくださった。改めて演劇の力が身にしみる。
本ブログの主要読者である同人誌作家の皆様、ぜひペンをして表現してくださいますよう。

高齢者の務め その2

今日は8月6日。広島が一瞬にして壊滅した日だ。
この時期の日本各地の出来事を記憶している人たちは、プラスマイナスなしに、ありのままの記憶を次世代に手渡す役目を担っている。
年齢を重ね、経験したことを繰り返し語り続けるうちに人の心は変化し、経験したこと以上に大きく表現する場合が出てくる。あるいは、人から聞いた事柄を、自分の経験であるかのように語ることも出てくるとも聞いている。
しかし、これをやっていたら「藪の中」だ。後世の人々の役には立てない。
記憶は固定した岩のようなものではない、記憶は生身の人の心の中に息づいて、その人と共に暮らしているから、意図しなくても変化して行く場合が出てくることは、言い換えれば生きている証拠かもしれない。
最近、NHKの番組「ファミリーヒストリー」で、仲代達矢さんが都心で空襲を受け、焼夷弾の雨の下、手をつないだ見知らぬ少年が一瞬のうちに消え、仲代さんの手の中に、少年の腕だけが残った、という記憶を語られた。
そして付け加えられたのだ、最近です、このことを話し出したのは、と。
あまりの辛さに、70年もの間封印し、沈黙を守ってきている人がいる。というか、口にできない。語ってくれる人がいる一方、こうした人も多い。

残されている映像や文書をアンカーとして、できる限り多くの人々の中にしまいこまれているものを集めてまとめてゆくことが必要だと思う。
誰も主張しないが、日本の各地を、町村単位でもなんでも良いから区切り、その土地にいた人の記憶を記録していきたいと思う。
戦争の被害に遭った人の言葉だけでなく「遭わなかった経験」をも記録したいと思うのだ。
多分、空襲を知りません、家は焼けませんでした、飢えを感じませんでした、戦死した家族はいません、などという人々がいるはずだ。これが、とても大切な記録になるはず、と思っている。
在ったことだけを記すのではなく、存在しなかった、ということをも記してゆくことで、立体化するはずなのだ。
全国に点在する文芸同人誌は、こうした仕事に加わってもらえないだろうか。高齢化を嘆くことなく、むしろ高齢の同人だからこそできる働きをしていただきたいと思う。

映画の話 その1

長野県には優秀な同人誌が多い。しかも素晴らしいことは「信州文芸誌協会」という組織を持ち、これに加盟している文芸同人誌が8誌もある。
連携し、交流し、切磋琢磨しているだろうと、贈呈を受ける当方個人誌は、輝く高峰を仰ぎ見る思いで読ませていただいている。
一方、私の住む地域でも催しあり、今度、第三回全国同人雑誌会議 in Tokyo が開催されるので、当方も持論を述べたく、楽しみにしている。みんな頑張っているなあ、真夏、酷暑の季節は秋の発表に備えて芸術家たちの力の込め時であります。

同人誌の話題かと思うでしょう、ところが違って映画の話題です。
こうした同人誌の中の一つに映画『哀愁』についてのエッセイがあり、これを読んだことで、一挙に「哀愁」時代へ関心が集中。
というわけで、これから何回か、映画昔話を楽しもうと思います。
このエッセイで、まず目に飛び込んできたものは、タイトルページに掲載されたカラーの映画ポスター。
原題『Waterloo Bridge』日本公開名『哀愁』。原題はイギリスのテームズ川にかかる橋の名前。この橋を手前に描き、主役の二人、ロバート・テイラーとヴィヴィアン・リーが浮かぶ。
なんと筆者は、このポスターを所有していられるという。1950年前後の時期に街で眺めたこのポスター。当時の映画館は、切符売り場の横に奥行きの浅い大型のショウウインドウがあり、上映中の映画シーンのモノクロ写真が何枚も飾られていた。
この中のどれでもいい、一枚でいい、欲しいなあ、と長いこと佇んで眺めたものだ。
戦争中には一切入ってこなかった外国映画が、終戦後にどっと入ってきた。映画『哀愁』もその一つで、製作は1940年アメリカ。日本公開年は1949年だった。
まだ白黒映画時代だったから、カラーのポスターは加工されたもので、デザインも多分、日本の絵描きさんの手によるものに違いない。当時の外国映画の大画面広告やポスターは手描きで職人芸だったから時に稚拙なものもあったが血が通っていた。
当時はまだ混沌とした世相で、筆者は私同様、通学途上でこのポスターを眺めていたのだ。私と違うところは、手に入れたことだ。
カラー写真もない、コピー機もない時代のことだから、これがどれほどの宝物か、筆舌に尽くしがたいのである。
それにしても哀愁というタイトルの、なんと味わい深いことか。当時は、日本語の題名を付けることに、本当に気持ちを注ぎ、良い題名をつけたと思う。良いタイトルの筆頭ではないでしょうか。
今時は、原題をカタカナ変換して終わり、という映画ばかりになってしまった。

『哀愁』は、1939年9月の英独開戦の日をドラマの背景として破局の恋を描いた映画。
あらすじは、イギリス軍将校のロイとバレエの踊り子マイラがウォータールー橋で出会う。ロイ戦死の報せにマイラは希望を失い娼婦となるが、ロイ生還を知り、この橋の上で車に身を投げて死ぬ、というものだ。
高校生だった私は、見たこともないような美男美女、本当に二人は美しかった〜、の恋物語に心を奪われた。
英語は聞こえない、歴史は知らない、外国の風習もわからない。それなのに胸いっぱいになって、素敵だなあ、かわいそうだなあ、とため息をついたのだ。
DVDなどが一切ない時代だから、もう一度観たいときは、改めて切符を買い、映画館へ入るしかなかったのである。
筆者は、こうして出ては入りを3回繰り返したと書いていられる。5回観たという友人もいるとも、書いておられる。
私は一回見ただけだったが、今時の映画鑑賞態度とは天地の差があり、一言一句、あらゆるシーンを脳裏に刻みつけようという気迫と熱意を込めて見入ったものだ。
だから、娼婦となったマイラが帰還した将校のロイを目にした瞬間の、衝撃の表情は今も目に浮かべることができる。
実際、この作品のリーは良かった。前の年に『風と共に去りぬ』の主役を得てアカデミー主演女優賞を受賞し、本作は、その翌年に作られているから華々しい時期だったろう。
ヴィヴィアン・リー自身も、彼女の出演作の中で最も好きな役だと語っているという。
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