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壺猫

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Apr 2019

寄り添う、という言葉

最近は、二言目には「寄り添う」というし、書きもする。
この表現は、体を相手に寄せて傍にいるという意味もあるけれど、最近多用される使い方は、相手の気持ちを理解し、共感する、というような精神的な意味合いで使われる。
二言目には寄り添うとやられるので、うんざりしている。コレで締めれば万事よろし。といった軽い空気がある。
寄り添う人は、常にいいもんの立場である。寄り添ったらもう、文句なしにいいもんである。
寄り添われた側の心情に、お構いなしに寄りついて、寄り添った側が喜んでいるだけ、という場合はないのだろうか?
もしかして、寄り添う側の人間の方が、誰かにひっつきたがっている、そういう場合もあるかもしれないと思うことがある。

最初に「相手の気持ちに寄り添ってみよう」と思いついて実行した人は、まことの開拓者だ。
これは良いと続く人たちも心根の良い人たちで、実行する力のある人は優れた人たちだ。実行することと思うだけの間の距離は、計り知れないほど開きがある。
心込めて実行している人たちのためにも、まるでコンビニで買ってきたかのような手軽さで、形だけのために使うのはして欲しくない。

高齢者の運転が危険だ、という問題を考えている。
超高齢者の親を持つ次世代家族が、親の免許返納を希望している場合、実態は寄り添うどころか、支配的言動である。
「やめさせるには」というのである。この表現を、個人が使い、メディアも多用し、当然だと感じているらしい。
生まれて間もない赤ちゃんに対するケア態度を超える一方的心情を持って相対する。危ないからやめなさいという単純明快さで迫る。
家庭内では、カメラもない、メディアもない、ブログに出すわけでもない、むき出しの心である。飾り言葉は使わない。

認知症の人にも、一瞬差し込む意識の光があると聞く。
重症の認知症の女性が、夜勤の係と交代して部屋を出て行く彼女の手首を掴んで、行かないで、と言ったと、彼女から聞いた。彼女は私の若い友人だ。
一瞬、開いた窓からのSOSの叫び。
運転歴何十年、ほとんど毎日クルマと付き合ってきた人がクルマと別れようとするとき、行く手には「この先行き止まり」の標識だけが見えている。
道を断たれた人の気持ちに寄り添ってくれる人が欲しい。「行き止まり」を、英語では dead end という。身にしみる言い方。
まだ死んでいるわけじゃない、運転ではない何かに希望の光を探しましょうと、まだらボケ高齢者の、まだら心に寄り添ってみよう。
クルマを取り上げてしまい、出て行くドアもない。これは無慈悲な暴力行為だと思う。

一方、まだらボケの側も、働き盛りの次世代の人たちの心に寄り添ってみよう。
若いもんたちは、とにかく今日にも事故を起こしたらただでは済まないと、切迫した気持ちでいっぱいなのではないだろうか。
思いやる力は、ゆとりがない場所では発揮する余裕も出ない。
明日と言わず、今日の午後にも事故るかもしれない親を思うと、ゆとりなぞ出るはずがない。大切な親だからこそ厳しい言い方にもなるのだ。

たとえば、クルマを止めて移動が不自由なら、病院へ通うためにタクシー代を出したらどうか、巡回小売があれば良い、などの提案もある。
ところが、まだらボケの超高齢者たちは、何の用事もない時に、自由気ままに動きたいのだ。こんな気持ちは理解されないどころか、封印されてしまう。
これはクルマを使わず、足で歩き回る徘徊と呼ばれる人たちの中にもいるのではないか。徘徊したいという気持ちが、私には身にしみるほどにわかる。
なんだ、これだったらクルマ続けるよりいいなあ、と喜んで出て行く世界が見えたら、ずいぶん多くのドライバーが明るい笑顔で次のステップに進むだろう。
ここはひとつ、お互い寄り添い合うことで、新しい道を探したらどうか。
明日から平成の時代が、次世代、新世代、令和に改元だ。
日本のこの伝統味豊かな風習にあやかり、価値観の転換を考えていきたいと思う。新しい道への鍵のひとつが価値観の転換だと思う。

心と繋がっている言葉

もう一度、池袋の母娘殺人車のことを言いたい。
お弔いをした夫であり3歳の娘の父でもある人が、うなじを垂れたきりの姿で語った。
それは、家族3人が当然持っているものと思い込んでいた未来が断ち切られた、まさに絶望の心を、訥々と言葉に絞り出したものだった。
どのメディアも反芻し、再現、再放映を繰り返す。力を込めて叫んだ言葉ではない、ようやくの思いで振り絞った言葉だった。これを受けとめて心揺さぶられる人々で日本が溢れていることもわかった。
先日の、元野球選手の清原さんの言葉も同じだった、頭で考えて作った言葉ではないのだ、心と繋がっている、技巧も作為もない、ハートそのものの言葉だ。
この哀れすぎる悲劇が、運転免許を返納する決心へと繋がってくれることを願っている。
市街地に住む高齢者に強く訴えたい。免許返納こそが、悲嘆にくれる父への弔辞であり、命を落とした母娘へ捧げる一茎の花となろう。

一方、加害者である高齢の男は入院中とのことだが、意識不明ではなさそうだ。一生を一所懸命に生きてきた最後のキワに、取り返しもつかぬ殺人行為をしてしまったことを、どれほどの思いで受け止めていることか。
なぜ、沈黙するのか? なぜ、言葉を発しないのか?
まさか、何も思わない、感じてもいないということもあるまい。
事故発生直後に息子に連絡をして、できる限りの防衛対処をしてのけているという。共謀である息子も沈黙しているが、おそらく弁護士をつけて万全の備えをしているのではないか。
過失であれ人殺しである。3歳の幼女は、行く手の人生を断ち切られた、この男は、過去を失ったとも言えるのだ。
ここで不用意な発言をすることが不利益につながると計算するような未練の男であるか。
赤裸の心を、なりふり構わず吐露することが、せめてもの人生終末期の態度ではないだろうか。憎悪心を持ち、狙い殺したのではないのだから。
この男こそが、同時代、同年輩の人々に向かい、免許返納のお願いの言葉を発するべきなのではないだろうか。
たぶん無言を貫いてメディアから逃れようと図るだろうこの男と息子に災いあれ。

自動車運転免許について。全国全員の高齢者が免許を返納することは、決して現実的ではないということを付け加えて言いたい。
電車、地下鉄、モノレール。駅前タクシー、流しのタクシー、高速バス、路線バス。
こういうものに囲まれた地域で生活している人は、日常生活で自家用車を運転しなくても、不自由なく暮らせる。車椅子を使う人でも単独行動が可能なこともある。
しかし日本は市街地だけではない、モノレールも地下鉄もないし、バスだって1時間1便のところがたくさん、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県などにも、いくらでもあるのが現実。
運転を諦めて、30分ごとに来るバスを待つことは大きなストレスだし、体力も持たないから荷物が持てない。そのバス停まで、どれほどの距離を歩いてくるのか、途中で腰を下ろして一息入れる石段も決めている。
1時間1本のバスに乗るために1時間歩く。このような地域は広いけれど人口が少ないので声が小さい。
運転を止めた後の受け皿なしに、やめろやめろと強要するのは、単細胞で無慈悲な態度だと思う。

高齢者運転免許

高齢者が引き起こす自動車事故が深刻な状況だ。今回は87歳の男が3歳の女児と、その母親を即死させた。悲惨さに胸塞がれる一方、高齢者の運転免許返上が話題に上る。
自分のことを言うと、去年の誕生日で返上した。最寄りの警察の交通課で、自主返納する理由を訊かれた。なぜ、理由を尋ねるのかと係員に問うたところ、アンケートを集計してデータを分析するのだという返事だった。
免許返納を決めた理由の、当てはまるものに印をつける。家族に勧められたから。同年輩の知人が返納したのをを見習って。必要がなくなったから。ひやりとしたことがあったから。自信がなくなったからなどが並ぶ。
どれ? と係員。う〜ん、どれでもない。と私。じゃ、なんで? と係員。
2つ理由があってね、一つは、ジジババがハンドル握ってるのを見るでしょう、停止線で停まるかな? 不意に飛び出さないかな? ってね、すごーい疑いの目つきで見ちゃうんですよ、あたし。
同年輩の人たちですからわかるんです。信用できないわよ。でね、私だって疑いの目つきで見られてるわけじゃないですか。ヒトにそういう心配させつつ続けるのって、どうよ?
あのジジババと私は別よ、って言える? 言えないわよね。いや、言っちゃいけないんだわ。
いいから。もひとつは? と係員。
こっちが肝心なんです。それは、車から公共交通機関に、いつか切り替える時期がきます。市街地に住んでいるのですから。切り替え時期が、あまり遅いと変化に順応できにくいでしょ。
適応できる力がある年齢のうちに切り替える必要があると考えているからです。車、好きだけど。すごく必要だけど。
困ったな。「その他」に丸するかな?
その他か。あたしの人生っぽいなあ、その他って。 
いいね? これ、穴あけちゃうよ!
悲しかった。もう走り回れないんだ。ギザギザパンチを入れたカードを返してもらった。
でも切り替えなくちゃ。先を見つめて元気に進むためだ。

元号は天皇のもの

結論から言うと、元号の存在は結構だが、日本国民の暮らしから切り離して、天皇所有のものとしてもらいたい、ということだ。
国民に使用を強要する、法制化することも止めてほしいということだ。
今回、次の天皇のための元号が決められた。思案し決定するのは、来月から天皇になる予定の皇太子殿下本人ではないどころか関与もしていないらしい。
選ばれた選者たちが、いかに心込めたとしても名を冠する本人と関わりのない他人である。押し付けられた名を否応なしに一生用い、死んでのちまでも、この名で呼ばれることになる。
大昔の元号は、もっとのびのびしていたのではないかしら。
秩父の山中に銅の鉱脈を見つけた。これで銅銭を鋳造できるわ、めでたいわ、元号を和銅に替えましょうよ。
と喜んで「慶雲」だった元号を「和銅」に取り替えたのは、女帝、元明天皇だった。西暦708年のことだ。このころは女性天皇もいたし、元号も気軽に取り替えた。なんか自由で楽しい感じが伝わってくる。
(ほら、ご覧なさい。和銅元年と言われても、いつのことやら判かりません。西暦に変換して納得するわけでしょう?)
今は、がんじがらめだ。今の天皇一家は自分自身のことも自分たちで決めてはいけないらしい。内々のことを夫婦親子だけで決めるわけにはいかないみたいだ。
思いつきを勝手に喋ることも問題らしい。挨拶以上の内容を喋ると大騒ぎになる。おまけに関係のない他人が寄ってたかって口を挟む。
天皇家という表現を目にすることがあるが、これでは家庭とは言えない。悲惨な晒し者だ。
朕は神ではない、と昭和天皇が人間宣言したのは事実だが、今現在の有り様は、どうだろう? 人間扱いされていない。人間扱いをしないのは、どこの誰だろう? ひどすぎる。
いったい誰に天皇とその一族の人権を蹂躙する権利があるのか。今現在のような振る舞いは、法律がどうであれ、人間同士として許されてよいものかどうか。
家庭内の事情・心情まで暴露、あるいは誤暴露され続けるありさまは、気の毒で見ていられない。これでは身の置き所もないではないか。だいいち神経が保てない。
わけのわからん「象徴」という冠を外して、慕いたい人から慕われ、愛され、親しまれつつ、穏やかに安全に過ごしていただきたい。願わくは、世界有数の長く深い伝統を大切にしていただきたい。
一方、伝統は伝統、国民の実生活は現実の暮らしだ、元号を公に用いることはやめてほしい。というか廃止すべきだ。
天皇の治世ではないのだ、国民を巻き込まないでくれ。戸籍をはじめ、公的書類から解放されるべきだ。あまりにも馬鹿げている。
日本は特別だ、元号は国民に必要だと言い張るのであれば、徹底したらどうかしら。度量衡も元に戻したらいかが。一升升で米を測り、道を訊かれたら、一丁ほど先ですよ、とやったらよい。
天皇に関する様々な感情も決まりごとも、希望する者たちの中に守られて続きますようにと強く願う。

平成から令和へ

月末からパソコンが壊れていて使えなかった。新聞の購読をしていないので、ニュースはテレビで見ていた。
大きなニュースは、4月1日に新しい元号が発表されたことだった。テレビ丸ごと大騒ぎだった。
昭和から平成へ改元の節は昭和天皇の容体報道が何日も続き、ご大喪へと日が進んで後の元号発表であった故に沈んだ空気に包まれていたし、数多続く宮中の行事の中の一つでもあった。
今回は、代替わりによる改元だから明るい大騒ぎだった。小渕さんの真似をして額入り二文字を掲げてみせた発表スタイルは、この先も定着しそうな勢いだ。
興奮の坩堝と化したTV局は、どのチャンネルに切り替えても違いがわからない有様。
号外に飛びかかる群衆、日の丸の小旗を振る人々、歓迎の笑顔が溢れた。ひとり残らず同じ方向を向き、同じ感情に包まれて高揚している映像。
その有様は、あまりにも同じ過ぎて、一方通行の道路を走っているような感覚に陥った。
こんなことってありえないというか不自然じゃないかと気持ちが引けた。
日本中が一色に染められていた時代を思い出した、一億一心。忌まわしい戦争中時代を。靡き伏しけん、草も木も。右向けーっ 右!

パソコンが回復した。頼りにしている二人の息子が寄ってたかって修復してくれた次第。
文句ばかり言っているが、実は助けてもらい、支えてもらいを繰り返しつつ生きのびている。できることは「ダメになっちゃった〜」と騒ぐことだけだ。
久々にネットサーフィンしてホッとした。
高嶺おろしに草も木も 靡き伏しけん大御世を、じゃなかった、意見異論、別論、多々溢れている。
これが普通だ、賛否両論あって自然なのだ。令和? いい字じゃないですか。なんか冷たい。変換すると0話が。昭和に重なる。などなど。
笑顔を拾い集めて放映時間を埋め尽くすことは報道ではない。報道者がこれをやったら、罪悪というより犯罪じゃないですか。
日本中が一色に染められていた時代を思い出した、ラジオだけで、おまけに民間放送がない時代を。新聞は裏表の2ページ、1枚の時代。
統制下の報道を浴びていた時代を、図らずもテレビニュースだけに依存して過ごしてみて思い出した。
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